ビールの友(2) 2000年1月〜2001年11月

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太陽にほえろ(2001年11月26日)

掲示板で「太陽にほえろ」が新しく始まる話題になってますね。館ひろしがボスらしいですけど、どうもイメージじゃないな・・。館ひろしといえばやっぱり西武警察ですよね。私の年代は「太陽にほえろ」には特別な思い入れがある人多いと思います。1980年に「3年B組金八先生」が裏番組で始まってから「太陽にほえろ」は廃れてしまいましたが、全盛期の頃の70年代後半の金曜8時といえば一週間のうちのもっとも楽しみな時間だったという人も少なくないのではないでしょうか。当時小学校高学年だった私も1週間に一度買ってもらえる”グリコアーモンドチョコレート”を食べながら家族揃って「太陽にほえろ」を見るのが無上の幸せでした。

マカロニやジーパン、ボン、スコッチ達が殉死したり、ゴリさんがペストにかかったり、殿下が美人犯人を逮捕したり、山さんが「話しは聞いた」と言いながら部屋に入ってきたり・・・、あの頃の「太陽にほえろ」が一番面白かったです。まだ3棟くらいしかない新宿の高層ビルに朝日が登るオープニングは思い出しただけで血湧き肉踊ります。

そこで往年の「太陽にほえろ」ファンとして館ひろしのボスに異を唱えるべく、独自のキャスティングを発表します。

ボス・・・・・・萩原健一(マカロニが実は生きていて出世したという設定)
山さん・・・・NHK教育の「中国語会話」の先生(毎週の古畑任三郎の物真似は秀逸)
ゴリさん・・・NHK大河「北条時宗」で平頼綱役の一刻堂似の北村一輝
殿下・・・・・「大地の子」で陸一心役だった上川隆也。
長さん・・・・当然、いかりや長介。いぶし銀の老刑事といえばこの人しかいない。
若者・・・・・半年で殉死する若者刑事の一人目は豪華にキムタクに走ってもらいましょう。
シンコ・・・・優香。 ま、これは好みです

七曲り署署長・・・津川雅彦
1回目の犯人・・・伊藤四郎を主犯とする拳銃密売組織。

うーん、我ながら完璧なキャスティング。

異論反論は掲示板で受け付けます(o^ー')b チェキラ


旭ヶ丘温泉 ('01.8.31更新)

8月23日の原稿をアップしてから掲示板に寄せられた情報より・・。

 

1.「北海子供盆踊り」とういのは間違いで、正式には「子供盆踊り歌」というらしい。 

 北海道教育委員会選定
子供盆おどり歌      坪松一郎作詞 山本雅之作曲

1.そよろそよ風 牧場に街に
  吹けばちらちら 灯がともる
  赤くほんのり灯がともる ほら灯がともる
 ※シャンコシャンコシャンコ シャシャンがシャン
  手拍子そろえて シャシャンがシャン

2.笛も流れる 太鼓もひびく
  風が流れる 中空に
  手拍子そろえてほらまわれ ほらまわれ
 ※(くり返し)

  − 間 奏 −

3.そろたそろたよ どの子もそろた
  そろてうたえば 月が出る
  海の上から月が出る ほら月が出る
 ※(くり返し)

 

2.旭ヶ丘温泉は定山渓からの引き湯だったらしい。
  ※双子山温泉と言ったという説もある。

3.その旭ヶ丘温泉というのは現在の南藻園のところにあったらしい。

以上の様な情報をいただいて旭ヶ丘温泉について更に調査(というほどの大げさなものではないが)した結果ネットで以下の情報を見つけました。

★温泉山(おんせんやま)

現在の旭山記念公園一帯、南藻園周辺。大正13年、この地に、定山渓から湯を引いた「札幌温泉」ができました。また、藻岩山登山道入り口のの観音寺(現在の慈恵会病院前)のあたりに、沸かし湯の鉱泉旅館が営業していたこともありました。

上の記述は『滝の飛沫』とういページ(http://homepage2.nifty.com/~haluca/index.html)の中の「札幌地名・通称」とういコーナから採取しました。出展は明らかにされていませんが、信用してよさそうなページです(^^)

興味が湧いてきたので更に調べてみようと思います。温泉郷跡が見つかれば「千と千尋の神隠し」を体験できるかも・・。


盆踊り(’01.8.23 更新)

 

家の近所に子供のころから慣れ親しんだ公園がある。すべり台やブランコなどの遊具は少ないが、住宅街の公園にしては割と広い。何よりもこの公園を特徴づけているのは樹木の多さである。特に公園のほぼ中央にある三本の巨木は、開拓前の藻岩山麓の密林を思わせるのに充分な威容をたたえ、この公園に鬱蒼とした風格を与えている。

住宅街の公園ではどこでも行われているように、この公園でも毎年町内会主催の盆踊りが催される。三本の巨木を柱にして建てられた櫓には「第40回町内会盆踊り」と書かれた白い布製の横断幕が張られていたのでそう歴史が古いわけではないが、公園の雰囲気に押され明治の頃から続いているような錯覚を覚える。

この付近の住宅街は札幌にしてはわりと古く、明治や大正の市街地図にも小さな集落として記載されている。昭和の始め頃までは温泉が出たらしい。この公園がその頃からあったとは考えにくいが、何かお盆祭りのようなものは付近のどこかではあったに違いない。公園からほど近い場所に藻岩山登山道の入口や、古い稲荷神社がある。登山道入口の脇には養護老人私設のある大きな病院があり、古い市街図ではこの病院は”保養地”となっている。この辺に湧いたという温泉と関係があるのかもしれない。

私が子供のころまでは、お盆に提灯を持って藻岩山登山道を行列で登る行事があった。大人たちからは”狐の嫁入り”と教えられたがいつの頃からか無くなった。登山道に連なる提灯行列の灯が市の中心部にあった曽祖母の家からでも確認できた。

さて、話しは戻ってこの公園で毎年行われている盆踊りだが、私が小学生だった昭和40年代から50年代はじめ頃はとても賑やかだった。踊りの音楽を聴きつけ集まった人たちで公園はごった返し、櫓を中心にした踊りの輪がいつのまにか二重三重と増えていった。櫓から周囲の木に何本も渡された綱には近所の商店街の店の名前が入った提灯がぎっしりと下げられ、商店街の店主たちが踊りに来た子供たちにお菓子や文房具を配っていた。それを目当てに集まる子供たちもいて、小学校も高学年くらいになり知恵も度胸もついてくると何度も並びなおして、景品を山のように抱えて帰ったりしたものだ。櫓の上で太鼓を叩くのは花形で、小学高学年や中学生の男の子の仕事だった。お祭りになると見せ場を求めて張り切る子供はなぜか普段は悪童というのが多かった。

永遠に続くと思われたこの光景に異変が訪れたのはいつの頃からだろうか。時代が平成になってからは踊りの輪はこじんまりとしたものを一つ作るのがやっとというほど参加者は少なくなっていた。その輪すら途切れ途切れという年もあった。輪を小さくすればよいようなものだが、こうなると輪の中心に居座る三本の巨木が恨めしい。

中学校の高学年くらいからは皆盆踊りから足が遠のく。踊るのが恥ずかしいと思う年ごろなのだ。私もこの年ごろから20才位になるまで盆踊りには行かなくなった。東京の大学に入学し夏休みで帰省するようになってから懐かしさも手伝い、この公園の盆踊りを覗き見るようになった。

この頃は踊る人の人数が年々減っていった。踊りの輪の所々にお手本を示しながら踊るおばさんたちがいる。町内会のおばさんたちなのだが、子供のころから見知っている人たちである。幼なじみのお母さんも何人かいる。帰省中は母や弟たちと見に行ったのだが、踊りの輪に加わらないが申し訳ない気がして、おばさんたちに見つからないように遠くのほうから眺めたりした。人が少ないと拡声器から大音量で流れている”北海子供盆踊り”の音楽も少し空しく聞えた。

私が札幌に帰って8年経つが、ここ3〜4年、少しづつではあるが踊りの輪が人数を盛り返して来た気がする。長い間地に堕ちていた社会というものの価値が僅かではあるが見直されてきているのと無関係ではないと思う。今年は実家の母と妻と子の4人でこの公園の盆踊りに行った。お手本役の顔見知りのおばさん達が私たちを見つけて寄ってきてくれた。妻と子を紹介すると一緒に踊るように促された。貰った団扇を腰に差し1才半になる子供を口実に20数年ぶりに踊りの輪に加わった。最初は少し勇気がいるが、子どのものころの記憶を身体が覚えていたのかすんなり踊れた。

しばらくすると若いお父さんが私のほかに2人踊りに加わった。盆踊りの輪にはおじさんキャラも必要なのだ。あの華やかだった盆踊りを自分の子供の世代にも見せてやりたいと思っているのは私だけではないようだ。


このイケてない運転って・・・('01.8.2更新)

昨日定山渓の方に用事があって石山通りを車で走っていたら、真駒内のサティーのあたりで突然渋滞に巻き込まれました。さっきまでスイスイだった車の流れが突然ビタっと止まってしまい、「なに?」と思いながら渋滞の中車を進めること10数分、原因がわかりました。道路工事です。

しかし!、道路工事といってもたかだか20メートル足らずの工事で片側2車線の一つが塞がれているだけでした。塞がれた車線を走る車がもう一方の車線に合流するために右往左往しているのですが、ウインカーを出しているにもかかわらず道を譲らない車があり、また、一台が車線変更に成功するや強引にそれに従い割り込む車ありと正に合流地帯は無政府状態です。みなさんもこんな経験ありませんか?。例えば右車線を走っていて右折待ちの車にはまっていまい、ウインカーを出せども猛然と後ろから車が走ってきて道を譲る気配はない、もしくは左車線を走っていて路駐の車にはまってしまい、ウインカーを出せども誰も入れてくれない。もうすぐ右折なので右車線に入りたいのに後続車が無理に車間距離を詰めているので危なくてウインカーも出せない。この猪突猛進型の人たちは一体どういう日常生活を送っているのか・・、さぞ周囲の人は迷惑しているに違いない。前方に右折車や障害物があれば当然その直後の車は車線変更をする。このくらい読めなくては人間同士のスムーズなコミュニケーションなどおぼつかないはずです。

駐車場などでもこういった無政府状態をよくみかけます。演奏会が終わってホールの駐車場から車を出す時によく遭遇するのですが、一斉にお客さんが帰るのでホールの駐車場は当然混み合っています。普通屋外の広い駐車場というのは車が通行するためのスペースが幾筋かになっているので、合流地点がいくつも生れます。ここで例えば一つめの筋の車が出たら次は二つめ、次は三つめ・・・、という具合に順番に合流もしくは外に出ればいいものを無理に前の車に距離を詰めて道を譲らない車が多すぎます。順番に出ればスムーズにいくものを、結局車の流れが停滞してしまうとう非常に愚かな状況を生んでしまいます。

この順番という方式は東京では当ったり前のことですよね。私は東京で車の免許を取って運転は東京で覚えたので、札幌に帰省してこの惨状を見た時はなにやら北海道の恥部を目の当たりにしたようで愕然としました。東京では車線変更のためウインカーを出せばほとんどの車は入れてくれます。そもそも車間距離をある程度保って、片側二車線の場合交互にスペースを作りいつでも車線変更できるように配慮して走っています。駐車場などでの配慮も行き届いていて、どの様な場所でも強引な割り込みはかえって時間がかかる結果になるということを皆よく知っているのです。

信号待ちでライトをスモールにするというのも東京独特の習慣ですが、RV車がこうも増えてくるとあの習慣を札幌にも取り入れて欲しいです。RV車はライトの位置が高いので後ろに着かれるととてもまぶしいです。RV車は前にこられても視界が遮られて邪魔です。彼らはそういう車に自分が乗っているのだということを認識するべきです。そもそもRV車に乗っている20代前半くらいの子供たちの運転がなっていません。道路はキミのためにあるんじゃないんだよ、と教えてあげたくなります。彼らは私のRV車嫌いをますます助長してくれます。東京を賛美するわけじゃないですが、東京ではこういう子供は都心に車で来るなという暗黙のプレッシャーがありますよね。

市街地でやたらとスピードを出す車も札幌は多いですね。信号も車も多い市街地でスピード出したところで一体何の得があるんでしょう?。度を越して速度の遅い車は円滑な車の流れを遮って邪魔なのは皆知っていますが、やたらと早い車というのも同じように円滑な交通を阻害して周囲の邪魔になっていることをこういう人は知るべきです。高級スポーツカーに乗って車が趣味って人は人の迷惑にならないところでスピードは出しても、市街地でアホな運転はしないですね。

郊外ならともかく、市街地でのこうしたアホな運転は非常に田舎臭い、地方都市にありがちな代表例です。札幌の民度を押し下げてます。またこういう人たちのかっこ悪さ、洗練されてなさが街の美観を損ねます。あえて例えると盆踊りなどにたむろっている不良少年たちクラスのかっこ悪さです。

以下は無謀運転とは違うのですが、例えば信号のない交差点で優先道路が標識で指定されているにもかかわらず、優先道路で止まってしまう車とか、幹線道路を走っていると前の車が道路のまん中で突然止まってしまって、なにかと思ったらわき道から出ようとしている車に道を譲ろうとしてたとか・・、やはりこういう運転はおば様たちが多いのですが、こういう的外れな親切心は非常に危険です。

逆に度を越した安全運転というのも考え物ですね。余談ですが、演奏旅行などで地方の道路を走っていてある法則を見つけました。『帽子をかぶったおじさんと手袋をはめたおばさんの運転は異様に遅い』(笑)。しかもバックミラーを見ない人が多い傾向にあるので長大な大名行列を作ってしまいます。 ま、市街地の無法者と違ってそんなに腹はたちませんが。

イケてない子供ドライバーや猪ドライバーが増えると車社会の信頼関係が薄れてきますから、これからますます殺伐とした道路事情になるのかと気鬱です。


更新って・・・(’01.7.25更新)

 最近更新が滞ってます・・。立派な文章書こうとするからいけないんだな。うん。反省しよう。しかし文章というもの、一回なかなか満足の行くものを書いてしまうと次はもっといいものを書かないと書かないと納得できなくなってしまう。

 ボクはHP作成に「クラリスホームページ」っていうソフト使ってるんですが、クラリスに直接書くっていうことはほどんどなくて、秀丸とかのエディタに書きます。書く前には資料を揃えたり写真もないと淋しいかな、とか思ってデジカメで撮った写真を30kb以下になるようにフォトショップで加工して、普通のフィルムで撮ったものはフィルムスキャナで取り込んだものを加工して、となかなか手間がかかります。

 クラリスで書いたものをコピーしてクラリスにペーストするわけなんですけど、クラリスのほうは文章は全て幅600ピクセルの表の中に入れてます。こうしないと見る人が画面一杯に一行がビローーンと伸びた文書を読まないといけなくなるからです。それって読みにくいですよね。ちなみにこの文章も600ピクセルの表に入れてますけど、枠を0ピクセルにしてるのでそちらには見えてないのです。あと、文字の色と背景色のコントラストが高いと読んでいて疲れますから、背景に薄い色をつけるか、背景が白の場合は文字の色を灰色にしています。・・・・とこんな気づかいの自慢話はどうでもいいのです。

 要するにそいういう能力以上の気づかいと、身の丈以上の文章を書こうという見栄が更新を滞らせる最大の原因だということにハタと気がついたので、これからは写真がなかろうが駄文だろうが、どんどん更新していくことにしました。しかもクラリスホームページに直書きでいこう。きめた。

  


目指せ!廃線マニア−2− (’01.6.22更新)

 上川、興部、斜里と続いた道東演奏旅行のついでに、6月20日紋別にある『オムサロ遺跡公園』を見てきました。実は去年もここに来たのですが、ちょうど興部から宿泊地の紋別に行く国道沿いにあるので寄りました。今回は2度目の訪問です。

 オホーツク海に面したこの地区は旧国鉄の廃線の宝庫でもあります。名寄からオホーツク海沿岸の街、興部に抜ける国道沿いには旧名寄線があるし、興部から北にはオホーツク海に沿った国道238号線と平行して興浜南線、サロマ湖を周回する形で湧毛線、紋別から内陸の滝上までは渚滑線、と枚挙にいと間がありません。現在は石北線を残すのみで昭和とともにそれらの鉄道は全て姿を消しました。

 当初はオムサロ遺蹟の写真をちょいと撮って引き返すつもりだったのですが、欲が出て名寄線跡も見に行きました。ここは線路跡はほとんど農地などに転用されて見分けがつかない状態になっていました。興部駅だった場所が「鉄道記念館」になって線路の一部が保存されていました。昔駅だった場所というのは言うまでもなくその街の中心なわけで、道路や商店街なども駅を中心にして配置されています。駅がなくなっていても「ああ、この場所は昔駅だったんだな」とすぐわかります。そこが訪れる人も決して多いとはいえない記念館などになっていると少し切ない気持ちになります。

 さて、オホーツク海沿岸に添うように走っていた名寄本線跡は廃線マニアを喜ばせるに充分な現役当時の残光をとどめていました。ただし国道と平行しているため線路跡を発見する楽しみはありません(笑)。鉄橋などもそのままで朽ちるに任せて放置されています。(※写真1)

 興部から南下してあと10分ほどで紋別市内に入ろうかという所にオムサロ遺蹟はあります。国道から100mほど内陸に入って名寄線跡を改装した遊歩道を抜け、小高い丘の上に遺蹟公園があります。オムサロ遺蹟とはオホーツク文化時代の遺蹟で今から1000〜1500年前にオホーツク沿岸に起った北方系の続縄文文化時代の集落跡です。200ほどの竪穴式住居跡が埋もれずに残っていて、その一部が公園になっています。高床式食料貯蔵庫や住居が何棟か復元されています(※写真2)。

 本州では奈良時代を迎えている頃ですが、千島、樺太、北海道の北辺ではまだ縄文文化なわけですね。縄文人も実のなる木の大量栽培や広域貿易、今で言う都市があり都市としての機能もかなり備えていたことが、最近三内丸山遺蹟の発掘などで明らかになっていますが、オムサロ遺蹟も大集落ですからこのあたりの首都だったのだろうか・・、などと色々想像力を掻き立てられて散策していて飽きません。

 実はここの遺蹟、飽きないことが他にもあります。実はこっちの方が廃線マニア的にはメインだったりするのですが、旧日本軍の塹壕が遺蹟公園の中心にずーっと掘られています。この辺は太平洋戦争末期にアメリカ軍の上陸に備えてトーチカやら砲台やらが沢山作られていたのです。網走市内にもいくつかトーチカが残っていて、オムサロ遺蹟の向かいにある原生花園にもトーチカがあったりします。

 さらに、旧名寄線に添って存在する遺蹟だけのことはあって、遺蹟公園内の遊歩道や階段のステップなどに、これでもか、というくらいに線路のまくら木がふんだんに使われています。(※写真3)

 縄文時代から太平洋戦争、旧国鉄と一粒で3度おいしいオムサロ遺蹟公園。公園内は無人ですが綺麗に整備されています。森の中の集落はひんやりとした静寂がただよっています。木々の間からオホーツク海が一望できてとてもいい場所でした。


写真1、国道と添ってある線路跡の鉄橋


写真2、公園内の奥まったところにある広場。奥の建物が復元された高床式貯蔵庫


写真3、左手の溝が、旧日本軍が掘った塹壕。右は遊歩道。脇の木は全てまくら木。


カート(’01.4.29更新) ※今回はかなり内輪ネタですm(__)m

 

 カートというものをご存じでしょうか。遊園地などにあるゴーカートの大人版といった感じのものです。かなりディープな世界らしくマニアも多数存在するようです。

 50ccの小型レーシングカーで専用コースを走りタイムを競います。去年職場の何人かがカート場でカートをしてきて、ものすごく楽しかったらしく、今回誘われて私もはじめてカートをしてきました。

 今回参加したのは同じ職場の5人です。ちなみにメンバーはフルートの森圭吾さん、高橋聖純さん、ビオラの三原愛彦さん、ライブラリアンの田中雅樹さんと私です。森さんと田中さん以外はカート初めてでした。

 一周750メートルのコースを5周、あるいは10周と決めて毎週ごとのタイムを取り、最高タイムと平均のタイムを競います。最初はそれこそ遊園地のゴーカートに毛がはえた程度のものと侮っていたのですが、実際に載ってみると凄まじい臨場感です。時速40km位のスピードらしいのですが、体感速度は150kmくらいに感じます。コーナーを曲がるたびにタイヤは軋み、抗しがたい遠心力に思わず歯を食いしばり、加速時のGによって体はシートに絶えず押さえつけられています。フルフェイスのヘルメットと手袋の着用が義務づけられていますが、コーナーからはみ出してしまったり他のカートと接触したりすることもあるので、危険がないと言えばウソになります。

 最初は練習のため2人、3人に別れてコースを走りました。2回目からは5人一斉にコースに出て10周のレースをしました。一台づつ数秒間隔でスタートしますが、連習時のタイムが遅い順番にスタートしたので2周めくらいで5台入り乱れての混戦になりました。3周めくらいのS字カーブでスピンした三原さんにカートに森さんが激突。私もコーナーでスピンして回転しながらコースの外にはじき出されました。すぐカートを立てなおしてコースに戻ったのですが、再びスピンした所に後続の三原さんが激突。三原さんは車から投げ出されて負傷。リタイヤ。カート場の係りの人に「タイムで競ってくださーい」と冷静に注意され(笑)ましたが、好きでぶつかってる訳じゃないのです。

 そんなこんなでやっと10周して順位は

1位 田中雅樹

2位 森 圭吾

3位 荒木 均

4位 高橋聖順

リタイヤ 三原愛彦

しばらく休憩して負傷した三原さんをラウンジに残し2回戦もやったのですが、タイムは相当ちじまったものの順位は変わりませんでした。

 

ここまでハードな遊びとは思わなかったのですが、今日は腕と胸と肩が凄まじい筋肉痛に襲われています。背中もシートにすりつけられたすり傷になっていて痛いです。森さんは激突した時に背中を打ったらしく、かなり痛いらしいです。三原さんは負傷した腕は幸い大した事なかったようなのですが、わき腹が打ち身で青くなってるそうです。

 

体の痛みとは裏腹に興奮は冷めやらず、第2回は6月中旬にやることになりました。

 

ストリーミングで映像が見れます。

RealPlayer 用(7.4M)

MediaPlayer用(2.6M)(I・Eのみ)

容量はありますがストリーミングですのですぐ見れます。5分くらいの映像です。

最初の練習風景です。撮ってるのと声の主は森さん。


支笏湖結氷(’01.4.14更新)

今日支笏湖に行ってきました。知らない方のために解説すると、支笏湖とは札幌から南西に20Kmほど行ったところにある風光明媚な湖です。周囲42km、平均水温3.6度と日本最北にして最も冷たい不凍湖。最大深度360.1m。戸沢湖に次いで第2位。国立公園に指定されているので一部を除き観光地化もほとんどされておらずとても綺麗です。東京から友人などが遊びに来た時は迷わずこの湖のほとりにある丸駒温泉に連れていきます。湖の岸にあるここの露天風呂から見た景色は絶景です。

さて、今日支笏湖に行ったのは理由があって、今年の寒い冬のせいで不凍湖のはずの支笏湖があろうことか全面結氷したのです。テレビなどでも散々やっていたので北海道在住の方は皆ご存じかと思います。湖が凍ること自体は珍しいことでもないのでわざわざ見に行こうとは思わなかったのですが、かりかりが5日ほど前に支笏湖に行って4月も半ばだというのにまだ20cmの厚さの氷に被われた湖面を見て「信じられないほど綺麗だった。今年見ないと次は23年後だよ。一生後悔するよ」と言うのと、新聞やTVなどでも氷が溶けはじめた様子が報じられていたのもあって見に行くことにしました。

かりかりから話しを聞いた後3日間は仕事があって行けなかったのですが、急に暖かくなって札幌の気温も20度近くまで上がっていました。たのむから溶けないで・・、と祈りながら3日間を過ごしやっと今日家族と見に行ったのですが、見事に溶けてました(`口´;)。それでも風下の岸に僅かばかり残った氷は粉々に砕けているものの、側によると波に揺られてシャリシャリときれいな音をたてています。次に見る時は58歳か・・・ふう。湖畔にカメラマンが沢山陣取っていました。彼らに交じって写真撮りました。

支笏湖のおよそ左半分。岸のわずかに白い部分が氷。

それでも岸に降りてみるとまるで全面結氷のような写真が撮れた。まるで測ったように同じ大きさの10cm角位の氷が波に揺られて大きな音をたてていた。

ストリーミング試験運用中(休止中)

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自分的大河ドラマの歴史。(’01.4.11更新)

 

私が大河ドラマを毎週欠かさず見はじめたのは1984年の『山河燃ゆ』からである。松本幸四郎が主役で第二次大戦中の日系アメリカ人の役。それ以前もたまに見ることは見ていたが弟が見ていた「西部警察」とチャンネル争いをしなければならず、毎週という訳にも行かなかった。

1983年の滝田栄主演の『徳川家康』の最終回はたまたま家族揃って見ていた。恒例の次年度予告を見ながら「来年のやつ面白そう、来年は絶対毎週見るからね」と声高に宣言し家族の同意を得て、日曜8時の枠を勝ち取ったのだ。その年ビデオを購入して「西部警察」は録画でも見れるという状況になったのも大きかった。

それから20年近く毎週ほとんど欠かさず大河ドラマを見ている。自分の中のベスト5を挙げるとしたら『山河燃ゆ』('84)、『武田信玄』('88)、『翔ぶが如く』('90)、『太平記』('91)、『徳川慶喜』('98)、といったところか・・。

幕末物は視聴率的には人気がないそうだが、幕末の歴史と司馬遼太郎が大好きなので『翔ぶが如く』と『徳川慶喜』が入っている。とくに『翔ぶが・・』は自分の中で最優秀候補になっている。原作と全く違う内容だったが監修が司馬遼太郎だったので時代考証など随所に司馬遼太郎の目が光っているのが伺われた。題字の揮毫も司馬のものだった。

自分の中で忘れられない名脇役たちといえばいろいろあるのだが、「独眼竜政宗」の原田芳雄扮する最上義光。仕事で山形を訪れたときに「最上義光記念館」なるものを発見して思わず立ち寄ってしまった。「武田信玄」の菅原文太扮する板垣駿河守、平幹二郎の信虎、石橋亮の信長・・、「武田信玄」は武田家の侍大将たちや戦国武将たちみんな個性があってよかった。あと三条の女官八重役の女優名は失念・・、今でも京言葉が耳に残っている。『跳ぶが如く』の加山雄三の島津斉彬、俳優の名前が分からないが山内容堂、容堂のイメージにぴったりだった。小御所会議のシーンは圧巻だった。『太平記』の柄本明扮する高師直、鶴太郎の北条高時。『華の乱』の野村万斎扮する細川勝元、万斎の存在はこのドラマで知ったのだが舞を舞って絶命するシーンなど本当に素晴らしかった。そういえば松たか子の存在もこのドラマで知った。『徳川慶喜』の杉遼太郎の伊井直弼。『元禄繚乱』の萩原健一の綱吉、岡田綾子の何といったか・・吉田栄作の妹役、いいな、と思ってたら次の年朝ドラ「オードリ」の主役になっていた。今回の大河の渡部敦郎も影があってとてもかっこいい。こんなところだろうか。

しかし出演俳優がNHK的に偏っているのは仕方のないことなのだろうか。西田敏幸、津川雅彦、江守徹、村上宏明・・、この辺が出てくるとまたか、と思ってしまう。去年の『葵徳川三代』は大河ドラマお得様俳優総出演の感があった。俳優女優の紅白歌合戦を見ているようだった。

逆にこれはつまらんかった。一年間見続けるのがしんどかった。というのは「いのち」('86)、「春日局」('89)、どちらも橋田寿賀子なのだがどうも苦手。橋田寿賀子のドラマは何を見ても「おしん」に見えてしまう。スーパー人格者の女主人公が出てきて人間業とは思えない寛容さで周囲の至らない人間たちを許しまくっていく・・。どうしようもない悪人は途中で事故などで死んでしまう。現実と明らかに隔絶したこの単純さが受けるのだろうか・・。

それとこれは最近の大河全般の傾向なのだが、武将や宰相などの妻や妾などが「女は駆け引きの道具ではござりませぬ!」「戦で酷い目に会うのはいつもおなごにござります!」などのセリフを15分に一回位のペースでわめくのにも若干辟易している。特にスキャンダル以降のジェームス三木の脚本にこの傾向が強い気がしないでもない。それとも視聴者に配慮したNHKの方針なのだろうか。しかし戦国時代や江戸時代などに男女平等論やウーマンリブなどあろうはずもないし、現代の人権や平等のような人道主義的価値観を時代劇に持ちこむと急にドラマが安っぽくなってしまう。たのむから止めてほしい。

そういえば'93,'94に大河の制作がNHKからNHKエンタープライズに一時移って出来たのが『琉球の風』と『炎立つ』だがどちらも煮えきらない作品だった。それぞれ半年と9が月の期間のミニ大河だったのもあるが、第一にテーマがまずかったと思う。沖縄問題や東北アイヌ問題は触れるべきではなかった。これらははっきり言って人種問題なのだから自由な表現など最初から出来るはずがない。案の定主題が単純過ぎる上奥行きもなく非常につまらなかった。

今年の大河はとても面白い。執権職をめぐる北条の骨肉の争いが今のところテーマになっているが、おどろおどろしくてなかなか楽しい。おなごが15分に一回わめくシーンのも無くてよい。女性が脚本だとかえっていいのだろうか。(橋田寿賀子は別だが)。ちなみにテーマ音楽指揮はわれらが尾高忠明。

大河のテーマ音楽も語りたいことがいろいろあるがそれだけで別稿が設けれそうなので次回に譲ります。

皇位継承権をめぐる骨肉の争いの歴史とか家督をめぐる骨肉の争いの歴史とかいろいろありそうだけど、さすがに室町時代までさかのぼると現代に当たり障りがなくていいのかもしれない。

 


日勝峠越え('01.1.15)

 

今年は久しぶりに寒いと思える冬だ。札幌でも連日マイナス10度以下の日が続いている。これを書いてる私の家の外の現在の気温はマイナス19度にもなる。近所や職場の人たちとは挨拶がわりにこの連日の気温の話しになる。だが寒い寒いと言いつつ実は皆嬉しそうである。興奮を隠しきれないといっても過言ではない。そうなのだ。北海道人は寒い冬が大好きなのだ。断言してしまおう。本州の人や最近北海道に来た人には分かるまい。はっきり言って自慢なのだ。

しかし近年北海道人を喜ばせうるような寒い冬は珍しくなった。私が子供のころ毎年氷結していた近所の川が最近は凍らなくなった。私の親が子供のころ、つまり昭和20年代までは冬は凍結した石狩川を馬車が通行していたそうだ。さらに言うなら私の祖父の若い頃は、冬は日本酒が凍るのは当たり前だったそうである。20%のアルコール溶液の氷点が摂氏何度かは知らないが現代より相当寒いであろうことは想像がつく・・。地球温暖化は間違いなく進行している。そういった「凍てつくような」という表現がピッタリの景色が一つづつ失われていく現実がそれを証明しているのだ。それを思うと寒さを愛する北海道人として実に物憂い気持ちになるのだ。

今日('01.1.14)帯広町の隣の音更町という街でカルテットの仕事があった。朝の7:30頃家を出た。今日も寒い。車の外気温計はマイナス16度を指している。天気は快晴。日曜なので街は人通りも少なく、たまにすれ違う車の排気管からは寒さのため湯気がモウモウと昇っている。寒さを愛する私としては最高のシチュエーションである。帯広への途中、夕張付近では車の外気温計はマイナス20度を下まわった。夕張川に張った氷の裂け目から昇った湯気は温泉のようである。その湯気は川面に張り出した木々に樹氷を作っている。まるで川沿いの木々にだけ雪が降ったかのような景色だ。今日に限ってカメラを持ってこなかったことを後悔する。

音更の仕事が無事終わり、夜帰路に着く。
音更から清水町までの数十キロは高速道路が通っている。たぶん日本で一番通行量の少ない高速なのではあるまいか。ガソリンの残量が気になったが一気に清水町まで行ってしまうことにした。清水町に着いたが目当てのガソリンスタンドが閉まっていた。かといって高速をまた引き返すのはかなり面倒である。エンプティーランプもまだ付いていないことだし、このまま日勝峠を越えてしまおう。

峠を昇りはじめた。日章峠は日高と十勝を結ぶ北海道有数の峠道で全長は60Kmくらいだろうか。ところが7号目にさしかかったあたりでエンプティーランプが付いてしまった。どうやら上り坂は通常よりかなり余計にガソリンを食うらしい。最悪の状況である。引き返すよりは日高町に行ってしまった方が距離的には近いが、下り坂にはトンネルが沢山あるのだ。もしそんな所でガス欠になってしまったら、後ろから来た車に追突されかねない。いや、しかし下り坂な訳だからニュートラでトロトロ降りることも可能なのでは・・、などと考えながら走り続ける。

こうなったら1Mでも先に進んで万が一止まってしまったら携帯でJAFを呼ぼう。と思いながらさらに走り続ける。少しでもガソリンの消費を少なくするため車の暖房をオフにした。外気温計はマイナス24度を指している。車内の温度がみるみる下がってきたのでコートを着て手袋をした。かなり寒い。凍えそうである。考えてみたらこんなところでガス欠したらJAFが来る前に凍死するんじゃないだろうか・・。などと思いながらさらに走る。

走りながら不安になる・・・、ところでここって携帯電話繋がるんだろうか。携帯を見るとやはり圏外である。かなり真剣に最悪の状況だ。ここで車が止まったとして、たまに通るトラックに手をあげたとしても赤いチェロケースを持った男に止まってくれるだろうか、仮に止まってふもとまで乗せてくれたとして、その場合旅館を見つけて宿泊することになるんだろうか、いや、集落ほどのあの街に旅館なんてあったっけ。それともガソリンスタンドでガソリンを小売りしてもらって車を借りてここまで乗ってきて・・・、いや、その場合運転手が二人いるのか・・・、無理だな。途中の農家に一泊の宿を乞うとか、それじゃ日本昔話の世界だな・・。うーん、やはりなんとかふもとの街までたどり着きたい・・・・。

ガソリンが途中で無くならないように祈るような気持ちで車を走らせ、なんとかふもとの日高町にたどり着いた。祈りが通じたらしいと一安心もつかの間、唯一のガソリンスタンドが閉まっている。「なに??」そうか、今日は日曜なんだ。無駄と知りつつも人気のないガソリンスタンドの扉を叩いてみるが応答はない。少し離れた所に商店の明かりが付いていた。いつ止まるとも知れない車のエンジンを再びかけて行ってみる。リーゼントのお兄さんが店番をしていた。

「ごめんください、この辺にガソリン売ってるところありませんか?」と私。「少し先にスタンドありますよ」とリーゼント。「あそこ閉まってるんですよ」と私。「ガソリン無いんですか?」とリーゼント。「もうランプ付いてて・・。」と私。ちょっと待ってください。と言ってリーゼントのお兄さんがスタンドの店主を電話で呼び出してくれた。なんて優しいの!。 しばらく待つとスタンドのおじさんが車で現れてガソリンを入れてくれた。

気のせいに違いないが満タンになった車のエンジン音はとっても頼もしい。早速車内の暖房を最強にした。身も心も暖まる。それからは暖かい缶コーヒーを飲みながらラジオを聞いて帰路に着いた。あのリーゼントのお兄さんは気のいい若者だったな・・、お礼だけじゃなくてせめて何か買えばよかった。今日は大好きな寒さを心ゆくまで味わいました。

 


ジミー・スコット ('00.11.22)

今日、札幌コンサートホール(キタラ)で行われたジミー・スコットのライブにバックのストリングスの一員として参加した。ストリングスのメンバーは7人で全員札響。実はジミー・スコットという名前はジャズに疎い私は今日始めて知った。それどころか演奏が全ておわってから知ったのだ。

まあ笑い話なのだが、ポピュラー系の仕事ではとてもありがちで珍しくもないのだが、『11月22日4時にホールに集合。服装はタキシード。ギャラは・・・円。』という以外何も知らなかった。譜面はリハーサルの時に渡されてそれどころか”ジャズ”という以外曲目も知らされていない。

出演者の一人の三原氏(ぽちよし)と共に札響の練習終了後車でホールに向かった。ホールには3時40分くらいに着いたが出演者らしき人は僕たち以外まだだれもいなくて、スタッフが忙しそうに舞台を作ったりして働いている。コーヒーを飲んだり雑誌を読んだりして時間を潰していると、今回の仕事を持ってきてくれた札響の某札響団員が到着。リハーサルは4時半頃に始まるらしい旨僕たちに告げた。

キタラの舞台裏というのはなかなか広くてリッチな気分になれる。サントリーホールが出来た時も舞台裏の広さに驚いたが、そのはるか上をいってるのだ。十数個ある楽屋の他に舞台のすぐ真後ろは空間の広いラウンジになっていて椅子や机、自動販売機などが並んでいる。他に喫煙ラウンジがあってガラスの壁で仕切られている。ボクはここの住人なのだが、ここも4人掛けのテーブルが10個ほどとコーヒーなどの自動販売機のほかバーカウンターもどきもついている。更に自慢げに特筆すべきことは、大理石の楽屋口から舞台までエレベーターや階段がない。つまり平屋なのだ。2000人クラスのホールでこんなホールは日本にここしかないのは言うまでもないが世界にもあまりないんじゃないだろうか・・・。話しが脱線したが、その喫煙ラウンジに札響メンバーが集まりだし4時半までの時間を雑談しながら過ごした。

時間になったので舞台に行く。ストリングスの座る場所やマイクの位置などが決まりリハーサルに入る。譜面は白玉の多い”ストリングス”という感じの単純なもので少し安心する。全国ツアーとのことで既にどこかで使われた形跡のある(つまり鉛筆で歌が入る場所やテンポが変わる場所などが演奏者によって書き加えられているもの)だった。どうやら歌の伴奏らしい、というのはこの時点で分かったがまだ歌手らしき人の姿はみえない。白人のピアニストと黒人のベース、ドラム。それに東京から来たらしきブラスセクション数人が舞台上にいる。それと指揮者がいた。指揮者はにこやかな人でストリングスにテンポの変わり目などを説明した。曲は10曲以上あったのでザッと通すリハーサルだった。ちなみにこういう仕事で自己紹介というのはないから彼らの名前も素性も知らない。たぶん向こうもそうなのだろう・・・。外人のトリオもブラスもとっても上手だった。きっとジャズの世界では有名な人たちなんだろう・・・。

リハーサルは歌無しで続いた。開演の1時間ほど前に歌手が登場した。背の低い黒人のおじいさんだった。なんともいえないすごい雰囲気を持った人だった。終始にこやかだけど凄味もあって、歌いだすとまるで女性の様な高い声。な、なんなんだ、この人は??。もしかして超有名な人?

ストリングスとブラスが入るのは第2部なのでボクたちが弾いてる時間は1時間弱だった。ジャズの曲はさすがに不慣れなので長い休符などを数え間違わないように少しびくびくしながら弾く・・。でも歌とトリオの演奏に聴き惚れる。これは偉大な人たちに違いない・・。さっきまでは「あの人っておじいさんなの? おばあさんなの? 」などと言っていたが尊敬の念が沸いてくる。終演後、スタッフが「お客さんがお呼びです」というので行ってみるとゴールデンスランバーズの宮田あやこさんとピアノの豊口さんがいた。彼らとはジャズのライブやレコーディングで何回かご一緒させていただいてる間柄。ジミー・スコット聴きに来たらボクが舞台に載ってて驚いたらしい。どうやらジャズの世界ではジミー・スコットと共演というのは経歴に書けるほどすごい事でバックの一員とはいえかなり自慢できることらしかったのだ。ものすごく羨ましがられた。「あのおじいさんおばあさん音程低くない?」とかさっきまで不敬なことを言っていたのをかなり反省する・・・。

ジミー・スコットという名前を忘れないように家に帰ってきてネットで検索してみると出るわ出るわ・・。gooでは1300件以上引っかかった。さっきからあの歌声がずっと頭の中回ってます。CD買おう・・。たまにこういう仕事もいいもんだね!


目指せ!廃線マニア('00.11.13)

最近廃線・廃道・廃虚などに凝ってます。廃虚といっても郊外の潰れたボーリング場とかではなくて、昔は使われてたけど今は使われなくなった鉄道や国道や村や炭坑などです。以前から興味はあって、偶然通りかかった旧道や廃トンネルなどに寄ってみたりしてたのですが、どこに行ったのか忘れてしまったり、せっかく写真を撮っても後になって一体どこで撮った写真なのか分からなくなってしまったりと、趣味と呼ぶにはあまりにお粗末な状態でした。それではいかんと思い直して1年ほど前から地図や本で下調べをして目的地を見つけて行くようにしました。

目的地を持って行くと、見つけた時の達成感や現場が想像以上だったり期待はずれだったりと一喜一憂したりして、わずかに趣味と呼べるくらいになってきました。どいう時に嬉しくてどういう時に落胆するかというと、例えば廃線では線路もまくら木も駅も使われていた当時のまま打ち捨てられていて年数だけが経った状態というのが嬉しくて、解体されていたり牧草地などに変わっていて跡形もない状態が悲しいわけです。嬉しい状態に遭遇するのが実はけっこう稀少でよほど辺鄙な場所に行かない限り、大抵は何かに(たとえば牧草地や畑や建物など)変わっていたり、ここまでするか?と思うくらい丁寧に解体されて平地になっていたり、森や林に帰って発見できなかったりします。

廃線では国道沿いにあるものはほぼ絶望的で、線路は跡形もなく駅は希に残っていても記念館やバスセンターなどに転用されていて廃虚としての価値を失っています。やはり狙い目は炭坑から石炭を輸送するために使われていた鉄道跡だということが最近分かってきました。手元に昭和51年の北海道地図があって、これと現在の地図を見比べて失われた線や炭坑などを探していたのですが、最近になって廃虚関係の本やホームページが実に多いことを発見しました。どうやら資料に事欠くことはなさそうです。

昨日('00.11.11)仕事で帯広に行く途中さっそく本で見つけた旧道に行ってみました。日高町の国道237号線の旧道です。現在の237号線と平行してところどころ旧道が残ってます。下の写真は「日高峠」の標識です。かつてこれが国道だったの?と疑いたくなるくらいけもの道と化しています。「道幅狭し」などの標識も林に埋没しながらも立っていました。正にマニアを喜ばせる年式相応の理想的な旧道です。さすが本!それにしても道路や鉄道って人が使わなくなるとあっという間に森に帰っちゃうんですね。自然の再生能力はすごいです。

そのうち撮りためた写真を並べて「廃線廃道コーナー」を作りたいもんです。といってもそろそろ雪が降ってオフシーズンになっちゃうんですよね〜。

追伸:小学生のころ母の実家のあった余市によく行ったのですが、バスを利用する時、忍路から蘭島に抜けるトンネルで、ちょうど中間くらいに20mほど外に出る場所があります。そこで旧トンネルと旧橋が海岸寄りに見えるんです。車で走っているので見える時間は僅かですので、その一瞬を見逃さないように毎回目を凝らしていました。上手く見ることができると2つ違いの弟と「昔のトンネル、昔のトンネル!!」と言って喜びました。

大人たちに「あのトンネルに連れていってほしい」と頼んだところで聞き入れてもらえるわけありませんから、自分が大人になって車を持つようになったら絶対行ってやる、と思っていたのですが、実際大人になったら交通量の多いあのトンネルのあの場所でウインカーを出して車を止める気になかなかなりません。最近ちょっと旧道づいてきて行ってもいいな、と思い出したらなにやらずっと工事してますね。あの工事はなんの工事なんでしょ・・。誰か教えてください。


巨人優勝('00.9.25)

巨人優勝!・・といってもボクは全然関係ないのだ。なぜかといえば野球を見ないからだ。見ないように努力しているわけではないのだが、どうしても興味が持てない。野球の話題が出来ると職場や知人程度の付き合いの人との話題には困らないしなにかと便利だ。天気の話しみたいに当たり障りがないし、同じチームのファンだったりすると一気にお友達になれたりするみたいだし。

シーズンが始まるころは毎年今年こそは野球の話題に乗り遅れず「清原がさーー、」とか「2位のヤクルトとは1.5ゲーム差」とか「マジックいくつ・・」とかいう用語を把握しようと思うのだが達成されたことがない・・。(”マジック”とは何なんだろう。いまだに分からん)  知人程度の付き合いの人に「昨日サウンドボード乗せかえてさ・・」とか「最近ホームページ更新してないんだよね」とか「カリオストロのジョドーって波平の声と一緒なんだよ。知ってた?」とか言っても話題を提供したことにはならないのだ。あたりまえか。

ボクが小学生のころは男の子は野球をやらなければ非国民のような扱いを受けた。クラスには大抵ガキ大将がキャプテンを務める野球チームがあり、親や学校も男の子は当然野球が好きであり子供たちに伸び伸びと野球をやらせてあげるのが大人の務めだと思っていた節がある。当時のあらき少年はこのありがた迷惑な状況に反旗を翻す勇気などないので仕方なく毎日野球をやった。本当は家で一人でプラモデルを作ったり漫画を描いている方がよっぽど楽しかったのだ。そんなわけだから身が入らずしょっちゅうエラーはするし、守備のときは「どうか自分のところに玉が来ませんように」と祈りつづけた。バッターボックスに入って偶然バットにボールが当ったりするとパニックに陥る。サードに向かって走ったこともあるくらいだ。 あの”ドンマイドンマイ”という言葉も嫌いだった。そもそも小学生が”ドンマイ”の意味など知っているはずがないのだ。運動が苦手というわけではないのだがどうにもあの少年野球のノリだけは好きになれなかった。

小学生の高学年になると絵を描くのが上手な子や、皆を笑わせるような話しをできる子がクラスの主導権を握ることができる時代になった。やっと自分の時代が来たと本当に安心した。これ以降野球をやらずに済むことになった。しかしそれまでの偽野球少年時代はボクのなかでしっかりとトラウマになっていたのだ。ボクが努力してもプロ野球観戦に興味が持てないのはガキ大将にいいようにされたあの少年時代と無関係とは思えない。楽しみにしているテレビドラマの録画を見たら、前半がナイターで潰されていた・・・。なんていうこともよくあるし。

 

地元にプロ野球の球団があったら少しは見る気になるかも。北海道は断然巨人ファンが多いみたいだが、敢えてオーケストラにたとえると巨人はやっぱりN響かな・・。テレビ中継もダントツに多いしね。阪神は大フィル(野村人気が朝比奈人気に重なるところもあるし) ヤクルトあたりが都響か新日といったところか・・。読響は読売グループだけど人気の点でやはり巨人の座はN響に譲らざるを得ないでしょう・・・・。我が札響はどこだろう。東京のオケがセリーグだとしたら地方オケはパリーグだろうか・・。ここはパリーグで一番人気の西武といきたいところだ。ところでパリーグで一番人気って西武でいいのだろうか? 

 

 


マカロニほうれん荘('00..9.14)

掲示板の方でマカロニほうれん荘ネタがちょっと続いてるので書きたくなりました。

実は私は小学生、中学生の頃漫画少年で漫画を読むのと書くのが大好きでした。書く方は書くことそのものより、ケント紙に製図用インクで、まずカラス口でコマ割りして、ペン入れして、すくりーんとーん貼って、ホワイトで修正して・・・、というあの作業を愛していたような気もします。

中学生になるとアニメが流行りはじめてセル画を書いて学校で一枚500円くらいで売ってました。セル画を書く道具はその頃はまだ一般の画材屋さんでは売ってなくて東映の札幌支社までわざわざ買いに行ったりして手に入れてました。セル画なんて珍しかったので見よう見まねで書いたメーテルや森ユキのセル画が同級生たちに飛ぶように売れました。

読む方は手塚治がとにかく好きでした。ブラックジャック全24巻は通算300回くらい読み返した気がします。当時ブラックジャックは少年チャンピオンで連載していて、チャンピオンは毎週金曜日発売なのですが、北海道は船便で送られてくるため月曜が発売日でした。待ちきれなくて土曜や日曜に本屋に見に行ったりしました。

そしてそんな漫画少年のど肝を抜くような漫画の連載が同じチャンピオンで始まりました。それがマカロニほうれん荘です。昭和52年から55年という3年間の連載でしたが当時少年期を過ごしていた人たちにかなり強烈な影響を与えた気がします。とにかくこの漫画のテンポ感やコマごとに目まぐるしく変わる登場人物たちの姿形は今までの漫画には全くない手法でした。キャラクターの服装のセンスは今見ても新しさを感じます。

連載が始まって一年たった頃の作品はまさに絶頂で笑いが30分くらい止まらなかったこともあります。作者の鴨川つばめはミリタリーマニアだったのかその手のネタがけっこう多くこれも楽しめました。それからほうれん荘やアップルハウスのあるこの漫画の舞台って下井草なんですね。私の10年の東京生活の最後の2年は石神井公園だったのですが、自転車で20分ほどの井草に同じ年の漫画家のいとこが住んでいてよく遊びに行きました。西武新宿線あのへんってサブカルチャー系の人が多く住んでてほうんれん荘の雰囲気というか70年代の残光がそのころも少し残ってた気がします。

ドラえもんの何巻か忘れましたが、のび太が雑誌を作る回で、好きな漫画家を”雑誌編集機”(といったか・・)に言うシーンがあるんですが、鴨川つばめの名が手塚治や赤塚不二夫と並んで挙げられてます。わずかな間で国民的な漫画家になってたんですね。ところがある時を境にマカロニほうれん荘が急におもしろくなくなりました。絵もだいぶ変わって癖の強い少し品のない感じになってしまいました。その後更にトーンダウンしていき、最後の半年くらいは休載も珍しくなくなり、「七味とうがらし先生はとしちゃんだった」ということがバレてほうれん荘を去っていくというストーリーの最終回には命からがらたどり着いた、という印象です。最後のほうは本人が書けなくなってアシスタントに書かせていた・・・、なんていう話しも聞きますが絵もスジも疲弊しきった印象を受ける内容からそれも頷けます。

10年ほど前のフォーカスだかフライデーだかで鴨川つばめを見ました。マカロニほうれん荘の連載終了後10年間は働く気力も動く気力すらも失せて自室に閉じこもりひたすら寝て過ごしたそうです。命を削ってあれだけの漫画を世に送り出してまさに燃えつきたのでしょう。とても痛々しく感じました。。「あの漫画の大ヒットは自分の人生にとって幸せだったのか不幸だったのか分からない」とその記事は結ばれていました。

マカロニほうれん荘連載絶頂期1978年の少年チャンピオン。毎週のように巻頭カラーを飾っていた。3年分全巻保存していたがさすがに10年ほど前に捨てた。捨て切れずに数冊残したうちの一冊。このころのチャンピオンって、マカロニほうれん荘やブラックジャック、がきデカ、ドカベンなど名作が目白押し・・・

左は文庫本。右は最近になって再版されたミニサイズの文庫本。しかし基準不明の捨拾選択をされてるうえに作品の並び順まで変えられている。その上毎回素晴らしかった扉絵がカットされていてとても不満。もっと作品を大切にして欲しい。これから読む人は是非左のオリジナル文庫版を古本屋で探して読むことをお薦めしたい。

こんな扉絵が毎回載ってた。たまにボンテージ風の衣装を着た女性の少しエッチな絵もあった。作者がロックマニアだったせいもあると思うけど中学生には刺激的だった。

 

 

 


Yahooオークション(’00.5.25)

Yahooオークションで初めて買い物をしました。知らない人のために説明します。Yahooオークションって言うのは検索ページのYahooの中のサービスで、フリーマーケットのネット版みたいな感じで、自分のところで不必要になった品物をここで出品して、一定の出品期間中(一週間など)一番高値を付けた人に落札されるという、個人売買のシステムです。

何万点も出品されててないものはないです。不動産からプレミア付きのエッチ本までなんでもありです。最近拳銃が出品されていて問題になりましたね・・・・(^_^;)

さて、そこで何を買ったかというと別に怪しいものではありません。オーディオアンプとスピーカーです。(いたって健全) 

事の経緯は、10日ほど前粗大ゴミにスピーカーが捨ててありました。妻が発見して報告してくれたので見に行ってみるとTrio(現:KENWOOD)のJL−4400というスピーカーです。かなりデカいですけど見るからに安物です。隣にこのシステムに付属していたのであろう安っぽいコンポも捨ててあります。なーーんだ・・・。と思ったんですけど今家にまともな再生装置がなく、結婚前に妻が持っていた超安物のAIWAのコンポで、しかもCDデッキが壊れていてCDウォークマンをつないでいるという職業音楽家にあるまじきオーディオ環境だったので、とりあえずスピーカーだけ拾ってきました。

帰ってきてAIWAのコンポに拾ってきたTorioのスピーカーを繋げてみると思っていたよりかなり良い音がしました。そのスピーカーは最大入力60Wの2ウェイです。高さが80センチくらいあります。スピーカーって安物でもエンクロージャーがでかいっていうただそれだけでそこそこの音がするもんだって再認識しました。しかも昔のスピーカーってシャカドンシャカドンいわない自然な音でクラッシックに向いてます。

ふ〜ん・・・・、とか思ってるうちに昔はまりかけたオーディオ熱が再復活してきました。オーディオってはまると金がかかって怖いのであえて避けてきた分野です。真空管アンプに何十万もするスピーカーを繋げて・・・ていていうのはさすがに無理なので、せめて人並みの環境を目指すことにしました。そういえば近ごろ自分で制作したCDの出来栄えを聴くのにも困っていたところです。

といってもただでさえパソコンやカメラに金がかかっているのにこの上オーディオなんて言ったら家庭崩壊につながりかねないので、『子供にいい音を聴かせたい』というのを隠れ蓑に安くシステムを揃えることにしました。

Yahooのオークションで「プリメインアンプ」を検索してみると500件くらいでてきました。アンプはつまみを回すとガリガリいうようになってるのがあったりして中古は怖いですが、Yahooのオークションには「出品者の評価」というのがあって、過去に出品して取り引きした相手の評価が全部載っています。この評価が商品の判断材料になります。わたしが目をつけたのはpioneerのA−120Dというアンプです。

1985年製ですが、当時9万円くらいしたもので3トランス7電源のハイクオリティーなものです。出品者の評価が全て「非常によい」だったのでつまみのガリガリ(「ガリΩ」というらしい)は信用することにしました。最終的に「希望落札価格」の23,000円で落札しました。

落札した3日後に商品が届きました。かなり慣れている人らしくしっかりと梱包されていて、文字どおり完動美品でした(よかったよかった・・・・・)

Trioのスピーカーをこのアンプに繋げてみるとさすがに60Wの非力さは隠せません。やはりスピーカーも買わなきゃだめだ・・・。Yahooオークションの味をしめてしまいスピーカーも探してみました。KENWOODの手ごろなのがありました。「LS−11ES」というスピーカーです。’93年のベストバイに選ばれた物だそうです。ネットで検索してみるとAVシステムを組んでいるようなマニアが使ってたりします。・・・これはいいに違いない!値段もその時15,000円と手ごろだし競ってみることにしました。

私は500円積んで15,500円で入札しました。しばらくして見てみると誰かが更に500円積んで16,000円になっています。しばらく小康状態が続いたのですが、翌日の夕方4:00が時間制限です。その時間は仕事で地方に行っているため競りに参加できません。

ちょうど土曜日で弟が仕事休みだったので頼んで競り落として貰うことにしました。携帯電話で連絡しながら価格を上げていったのですが、結局終わり5秒で20,500で競り落とすことが出来ました。

昨日スピーカー届いたのですが、まあまあ気に入ってます。もともと定価は8万5千円位の物です。まあまあというのはベストバイに選ばれたっていうので期待が膨らみすぎてたからかもしれません。この価格帯のレベルは十分満たしていると思いますが、音域のバランスがイマイチって感じです。弟が持ってるダイヤトーンのスピーカーは定価9万円ながらもっとしっとりしてていい音がします。でもダイヤトーンってもうスピーカー作ってないから、オークションでもプレミアついて高いそうです。でもとっても状態は良かったです。

昔使ってたDENONのLPプレイヤーを実家から持ってきて超久しぶりにLPを聴いて幸せになってます。

スピーカーの下がTrioで上が競り落としたKENWOOD,プレーヤーの下にあるのが競り落としたpioneerのアンプ。

これでやっと人並みの環境・・・・・。あとはSONYのCDデッキが修理から帰ってくるのを待つだけ。

めでたしめでたし。

Yahooのオークションお試しあれ・・。

 


CD制作('00.4.26)

去年くらいからCD制作に凝ってます。ちょうど1年くらい前PC自作に踏み切ったのもCD−R書き込みのためと言っても過言ではないです。

最初はCD−Rで自分の出演してる演奏会のカセットとかDATを残しておければいいな、と思ったのですが、 結局自分のものは面倒で全然作ってません。(^_^;)

もっぱら札響の友達などに頼まれた演奏会やリサイタルのCD作りに勤しんでます。おととしくらいから初めて、最初はpentiumu133でSCSIもISAパスの環境下で書き込んでいたのでコースタ ーの山を築いていました。

スペック以外にも原因はあったのでしょうが、私の知識では不明です。PCを新しくして”現代”のものにしてからはコースターを作ることはなくなりました。

でも自作した時サウンドボードをけちって安いのにしていたのでつい最近SoundBlasuterを購入するまではアナログ録音でした。

それにしてもデジタル入力端子のついたサウンドボードってなんでこんなに少なくて高いんでしょうね。デジタル出力のついたものなら巷に溢れかえってるのにいざ入力となるとめぼしいものは、SoundBlasuterと YAMAHAのなんとかとかいうの2種類しかないですもんね。

やっぱりPCユーザーにはゲーマーが圧倒的に多いんでしょうね。デジタル出力ってのはやっぱりゲームの音のためのものなわけでしょ。DATやMD(MDは大嫌いだが)からPCに音を取り込みたい人ってそんない少ないんでしょうか。

それと更に愚痴は続くのですが、クラッシックのライブをCD−Rに焼いてると世の中ポピュラー音楽中心に回ってるということを事あるごとに実感させられます。第一に世の中のライティング・ソフトってトラックアンドワンスが中心で初期設定ではかならずトラックアンド・ワンスになってますよね。ひどいのになるとディスクアットワンスがついてなかったりとか・・・・。

それとかトラック間のギャップ調整が固定だったりするものもあってこれも困ります。私が買ったIO−DATAのCD−Rに付いてきたアダプテックのEasyCDcreatorもその口でギャップが2秒に固定されて例えば0秒などに変えることが出来ません。

クラッシックでは楽章間で音が途切れるとは限らないし、ライブの場合会場の音が途切れるとおかしいのでトラックアットワンスで焼くことは皆無です。DATとかMDとかの無音部分を検出してIDをつけたり早送りのときに止まっちゃったりする機能もクラッシック的には誤操作を招く余計な機能の他何者でもないです。

今はDATで録音したものを光ケーブルでSoundBlasuterから取り込んで、ライティングソフトはWinCDRを使ってます。WinCDRは設定もいろいろ出来て気に入ってます。

そうそう、それと最近出会った素晴らしいソフトは、waveZという一つのwaveファイルを好きなところで分割できるソフトです。しかもフリー。

このトラック問題もクラッシック泣かせで、演奏会を録音する時って120分テープとかに続けて録音するから楽章ごとのトラックを入れるためには、PCに取り込む段階でずっと聴きながら楽章ごとに止めていくか、それともWave編集ソフトとかでとてもつもない時間をかけてファイルを分割していくしかないわけですよね。それがこのソフトを使うと簡単にできる優れものです。なんでこういう機能をもったWaveソフトが無いのか不思議でなりません。

 

話は変わって友達の演奏会のCD作る時はジャケットも凝って楽しんでます。「サッポロ・アラモフォン」という”独自レーベル”を作って遊んでます。

下は最近作ったブラームスの6重奏をやった時のジャケット

ドイツに似たレーベルがあってよく間違われて迷惑してます(笑)

 

あと、CD−Rのメディアによって音の優劣があるんですね。なんとなくそうじゃないかとは思ってたのですがここのページはとっても参考になりました。

それと、これは常連のCRAZY−Kに教えてもらったページなのですがMDが音が激悪、というのを説明してるページもなるほどと感心しました。やはりライブを録音するのはDAT以外は考えられませんね・・・。

細かいことなのですが、CDの裏面のトラックの数字って四角で囲んでますよね。あれを書こうと思って四角で囲んだフォントを探しまくったのですがここにありました。凝り性の方は是非使ってみてください(笑)。でも11番以降は自分で作らなきゃならないんですけどね・・・・。