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ビールの友 2003〜


 

★'05年7月以降、このコーナーはblog「チェロ弾きの1週間に一度日記」に引き継がれました。★


2005年5月24日「日常のちょっとした・・」

5月22日は稚内定期だった。稚内定期は今年で20周年を迎える。毎年地元実行委員会から来るオーダーは玄人好みながらオタク的にならず、的を得た選曲と共演者に感心させられる。地方定期でこれだけ息の長いクオリティーの高い活動をしている所は少ない。

さて、毎年この時期訪れる稚内で楽しみなのはオロロンラインと呼ばれる留萌から稚内に抜ける日本海側の道路をドライブすること。旧羽幌線跡と平行して走る国道232号線と手塩から北の道道からは海を挟んで利尻富士、そして内陸にはサロベツ原野が広がる。絶景なのだ。今回は稚内からの帰り利尻富士が今まで見た中で1、2を争うほど綺麗に見えた。午前中の早い時間だったのも幸いした。

深川から留萌に抜ける高速道路の延長でだいぶ行きやすくなった。NHK連続ドラマ”すずらん”の舞台になった恵比島(ドラマでは”明日萌”)駅のすぐ近く、秩父別の先まで伸びている。恵比島駅にも久しぶりに寄ったが、すっかり観光地が板についていた。”すずらん”の後もいくつものドラマや映画、最近は韓国ドラマのロケも行なわれたそうだ。

高速を使って稚内まで片道6時間。日帰りしてできないこともない。晴れた日のドライブコースにぜひともお薦めしたい。


サロベツ原野から日本海を挟み利尻富士を望む。


2005年5月19日「日常のちょっとした・・」

やっと桜が咲いた。遅すぎる開花に調子が狂う。やはり桜は咲くべき時にに咲いてこそありがたみがある。気持ちも昂揚するというものだ。今日の東京は30度を越えたそうだが札幌は依然春を感じさせない気温と天気が続く。


札響の練習場がある南区常盤の札幌芸術の森アートホール。残雪の向こうにちょっと分かりにくいが、ツツジとやっと開きかけた桜の木がある。

話しは変わるが、数日前に用事で豊平区の某所に行った。某所からの帰りにふと気がつくと株式会社”じょうてつ”の社屋があった。ここは旧定山渓鉄道豊平駅をそのまま使っているのだ。立ち寄って写真を撮った。一枚め。現在駐車場として使われているが、駅だった時代のプラットホームがそのまま残っている。二枚めは社屋の表側。階段などに駅舎の雰囲気が残る。この建物の前の道路も駅前ロータリーの趣が僅かだが残っていた。定山渓鉄道は1918年開業、1969年廃止。白石と定山渓温泉を結んだ鉄道である。以前藤野や簾舞でこの鉄道の痕跡を探した事があったがほとんど見つける事は出来なかった。

今年は演奏旅行で時間を作り廃線、廃道巡りをたくさんしたいと思っている。


定山渓鉄道豊平駅時代の1番ホームがそのまま残っている。


旧駅舎のじょうてつ社屋。


2004年11月24日「東京大学に招かれる」

11月20日、東京大学文化資源研究室というところで開かれれた「文化資源フォーラム2004・文化経営を考える〜オーケストラの改革・ミュージアムの未来」というシンポジウムのパネリストに招かれました。話しがきたのはたしか9月半ばくらいでした。札響の改革について話して欲しい、ということで、前専務理事の佐藤光明さんか、改革の前後通じて組合役員だった私にということでした。日程の調整が合ったので久々の東京一人旅を満喫して、三四郎池のほとりで物思いに耽ったりする図を想像し、いそいそと引き受けたのですが、佐藤光明さんも引き受けて東京二人旅になってしまいました。う〜む。(飛行機は別々だったけど・・帰りは一緒だったけど・・。)

なかなかイメージの湧きにくいシンポで苦労しました。お引き受けした当初は、札響の改革について語ってくれという以外、詳しい内容は知らなかったのですが、やがてオーケストラとミュージアムそれぞれからパネリストが出席し、両者の問題点を比べる・・・(あるいは共通点を探る)、という説明を受けたのですが、正直言って「??」。 「何を比べるの?」、「比べてどうするの?」、「それがガクモンというものなの?」、また、長年東大を過小評価する訓練を積んできた私としては、「何かとんでもなくありがたい教えを授けてくれちゃうわけ?」、しまいには、「東大がなんぼのもんじゃい!ごるぁ〜」など不遜な考えも含め謎は深まるばかりです。

発表の持ち時間は20分です。北大のシンポやラジヲなどの経験から考えるに20分とういのはあっという間です。かなり論旨を絞りこみ早口でいかないと何もしゃべれません。しかしながら事前にて提出を頼まれたパンフレット用のレジメも毎日新聞に寄稿した原稿を若干手直しして転載することで済まし、当日の原稿に至ってはどうにも筆が進まず、結局出発の前々日にやっとそれらしいものを書き上げました。当日の聴衆のオーケストラに対する理解の度合いによって、発言内容はオーケストラの一般的な紹介から始めなければならないのか、それとも独特なオーケストラの労使交渉といったような内容まで踏み込めるのか大きく変わるだけに、不確定要素が満載です。(なんとなくミュージアムに興味のある人が多く来る予感がしたのです)。

さて、当日。朝6時半自宅出発。12時に丸の内線本郷3丁目駅下車。東大着。下の写真は有名な赤門。旧加賀藩屋敷門ですね。写生してる人や写真撮ってる観光客がたくさんいます。

赤門を通り過ぎて少し行くと今度は正門があります。ここにも観光客がうじゃうじゃいます。「こらぁー!どけどけっ〜、観光客ども!!俺様は招かれたんじゃ〜〜」、とわめくような事はせず、普通に中に入りました。
正門から入ると銀杏並木の向こうに時計塔が見え、これぞ絵に描いたような東大!、という風景(下の写真)。微かな嫉妬を覚えながら見上げた銀杏は僅かに色づいてました。東京の秋は始まったばかりです。一昨日まで道東旅行で雪景色に慣れた身体には、蒸し暑くさえ感じる空気です。そういえば上着を脱いでも全身から汗が吹き出していました。

せっかくなので、少し東大の中を散策することにしました。昔芸大に通っていた頃は上野公園→不忍池→東大校内→本郷道り、という黄金散策ルートで本郷に楽譜を買いに行ったものです。少しぶらついて三四郎池に着きました。時間がないのと暑いので池のほとりで物思いに耽るのは中止。ここはやはり学食マニアとして学食に行く事にしました。中央食堂というところに行きました。D定食(440円)を食べました。『白衣での入場はご遠慮ください』とあちこちに注意書がありました。


上の偉そうな建物は法文二号館という今回のシンポジウムのあった建物。


special thanks Kr.Kono

シンポジウムのあった講堂(近く写真張り替え予定)。日経と朝日にお知らせが出たとのことで、学生の他、一般の方も多く、150人ほどの入りでした。
前半は講座の木下直之教授の挨拶のあと、前専務の佐藤光明さん、わたしがそれぞれの立場で札響の改革について発表しました。光明さんは”縦思考を横思考に”という持前の哲学を軸に、従来のオーケストラの規定概念にとらわれない活動を展開したという話し。例えばポップスオーケストラや最近では、札響マスコットの”ピリッキー”のティッシュやトイレットペーパー詰め合わせの販売など)
私は話しが重複しないように、なるべく労の立場での話しをしました。オーケストラに馴染みのない方が多いと感じたので、オーケストラ奏者の実生活(笑)、から入り、改革前、改革中の労使交渉の現実などの話しを中心にしました。やはり準備不足がたたってか自己採点60点かな〜。とにかく時間が足りない。聴講してる人たちはメモをとりながら熱心に聞いてくれました。
どうも、こういう場にでるとサロンコンサートのトーク風に”客を楽しませなきゃ”と思っちゃうのですな〜。無駄に笑いを取りに走ったり・・。これも時間を足りなくした原因。

わたしの次には助教授の小林真理さんという方が、オーケストラの(経営上の)各国比較などの話しをなさって、簡単な質問を受け付けて休憩。後半はミュージアムのパネリストの発表でした。パネリストは川崎市民ミュージアム学芸員の深川雅文氏、横浜市芸術文化振興財団専務理事の加藤種男氏、神奈川県立近代美術館普及課長の太田泰人氏の3方でした。それぞれオーケストラとミュージアムの抱えている問題に共通点があり、参考になる話しだったのですが、なかでも川崎市民ミュージアムの深川氏のお話しは、一旦取り潰しもマスコミで取りざたされるほどの危機に陥りながらも、学芸員で作った組合で次々と斬新な改革案を出し、入場者を増やし危機を脱したというもので、大変共感できるものでした。

そして、最後の1時間は総合討議でパネリスト6人による討議と会場からも意見を募るという趣旨でした。が、シンポの定番でやはり時間が大幅に押し、討議の時間はあまりありませんでした。でもまあ、朝まで生ナントカ〜じゃなので限られた時間の中でこれはある程度やむを得ない事でしょう・・。

という訳で、大変貴重な体験をさせていただいたわけです。研究室の皆さんにもとてもよくしていただき、何より会場の学生含めみなさん大変直向きに研究に取り組んでおられ、我が身を省みて恥じ入る部分はないのか?と・・。それでもお前は「東大がなんぼのもんじゃい!」と言えるのか?と。

ま、今回は東大をちょっと見直したのでありました。(おわり)


2004年11月11&25日「松原団地の夕陽1・2」(感傷的@自分の問題)

10月の札響東京公演の前日。ここ数ヶ月というもの何故か気になって仕方のなかった松原団地に足を運んだ。松原団地とは、埼玉県草加市。日比谷線乗り入れ東武伊勢崎線の松原団地駅を起点にした街で、わたしの母校である獨協大学はここにある。わたしは獨協大学を中退しその後音楽大学に行ったが、懐かしく思いだすのはいつもこの松原団地の風景である。

過去を振り返るのはかっこ悪い。億劫だ。過去を振り返るほどの仕事をしたのか?と自問自答したくなる。そういう理由で多感な青春時代を過ごした松原団地が気になりつつも、訪問は自粛していた。5年ほど前に獨協大学OBオケなるもののお誘いがあり、大学を訪問したことはあったが、その時は時間もなく、まさに駅と大学を往復したに過ぎなかった。

しかしながら、過去を振り返って感慨に浸る資格が自分にできたとも思えないのだが、ここ数ヶ月というもの、何故か松原団地が夢に出るほど気になって仕方がない。東京公演の前日に吸い込まれるように東武線に乗り松原団地へと向かった。

松原団地駅に降り立ったのは夕方の4時。駅周辺は高層マンションができて、私の時代と様変わりしているものの、一歩駅から離れると公団団地が並ぶ風景は15年前、わたしの大学時代と大きく変わってはいない。タイムスリップしたかのような感慨に浸りながらも日没時間が気になる。さっそく大学の敷地をかすめ、かつて私が住んでいたワンルームマンションに向かう。

途中、大学時代通ったコンビニに寄る。「いらっしゃいませ〜」というオーナー店長は当時のまま。恐ろしく無口な人だったが、わたしが本来なら卒業するはずの4年目に「卒業?」、「いえ、中退しました・・」。というのが唯一の会話だったな・・。

コンビニのある商店街を通り抜け、毎日自転車で大学に通った道を懐かしく噛み締めながら、当時住んでいたワンルームマンションに向かう。東京外環道路が出来て、どうやら草加インターから国道4号に抜ける道になってしまったらしく、交通量が激しい。信号まで出来ているものの、よくパンク修理に行った自転車屋もそのまま。わたしの住んでいたワンルームマンションも古くはなっているもののあった。このマンション。一回が不動産屋になっていて家賃は毎月この不動産屋に払っていた。外から覗いてみたが、受け付けの女性、商談をしているおじさんも15年分老けただけでそのままいた。懐かしさに思わず訪問したくなったが、やめた。彼らにしてみれば15年も前に大学生だった男に訪問されたとて迷惑かもしれない。覚えてくれているとも思えない。こっそりと建物の写真を撮ってその場を辞した。建物の写真を撮った頃はちょうど日没で、西側の空が見事に茜色に染まっていた。

草加という所は、もとは日光街道最初の宿場町で栄えた。いまの国道4号線は日光街道である。松尾芭蕉が最初の句を詠んだのも草加。市街に残る旧街道は黒澤時代劇に出てくるような関八州の宿場の名残りを留めている、といえなくもない。

さて、かつてのねぐらの前でたっぷりと夕陽を眺めた後は、日も暮れて写真撮影は諦め、大学時代に通った定食屋やビデオ屋などを周って歩いた。札幌では考えられないほどの距離を歩いた。学生街にある”越路”という定食屋。当時はクラシックのCDまで置いてあったレンタルビデオ屋はすっかりアダルトビデオ専門店に格下げされてた。長崎ちゃんぽんのラーメン屋はそのままだな・・。忠実屋という変な名前の大型小売り店は長崎屋になっていた。

ふと思いがいたり、と言うか、もともと行こうと思っていたのだが、大学時代に付き合ってたい彼女のアパートに行ってみた。迷いながら行った。記憶が定かではないのだ。危なげな記憶をたよりに進んで行く。・・ああ、そうだ、この橋を渡るんだ・・。、あ、そうそう。ここにクリーニング屋があった!!、記憶とは確かなのか曖昧なのか・・。やっと探り当てたアパート、私の記憶では壁はグリーンだったのだが、白だった。!
こうやって20年近く昔の思い出のある場所を訊ねるって、いじましいというか我ながら健気というか・・・。こういう感情って女性にはあるんだろうか・・。敢えて例えるなら大林宜彦監督の世界でしょう。完全にセピア色です。建物のの前に立ってみると、記憶の蘇ること!。ああ、そうだ。この柱に自転車のチェーンを巻いた。とか、ああ、そうだ。この階段を登って、うんうん。階段の三段目だけ塗装が禿てたっけ・・。朝まで飲んで皆でこのアパートで寝たな。など記憶のかなたから蘇ります。

つづく

【続編】11.25

で、そのアパートを後に今回の最大の目的地に向かいました。大学時代によく通っていた定食屋さんです。当時は踏切や駅を通らないと行けなかった線路の向こう側も、東武線が高架になり、どこからでも行けるようになってました。大学のオーケストラでよく行った安い飲み屋も健在。当時既に老夫婦だったおじさんとおばさんはまた生きてるってことなんだろうか・・・。意外と変わってない繁華街の風景にちょっと驚きながら定食屋を目指します。

繁華街を抜けて駅前通り。問題の定食屋。昼間は肉屋さんで夜には定食屋になるのだ。基本的にはとんかつ屋かな。当時のままありました。店構えものれんもまったくそのまま。ちょっと感動。引き戸を開けて店内に入る。二人掛けのテーブルが6つの細長い店内。おばさんも全然変わってないじゃん!!。と思いながらワラワラと懐かしさに打ち震えながら一番奥の空いているテーブルに座る・・。

リュックを降ろし椅子に腰かけると、おばさんがお茶を運んで来る。
覚えててくれてるかな・・、と思いつつ。「こんばんは。お久しぶりです」 恐る恐る話しかけると、おばさんの目はみるみる丸くなり、「まあ、まあ、まあ!!。ちょっと〜〜〜。お父さん!、秋篠宮さんよ〜〜」(爆)。厨房のご主人を呼びに行ってしまった。

「あんた、まあ、まあ、立派になって!、ちょっと太ったんじゃない?」とおばさん。
「覚えててくれましたか?」とぼく。
「覚えてるわよ〜〜。あんた、いつもあそこに大きな楽器置いて・・、お父さんと秋篠宮さんって呼んでたんよ。」(当時のわたしは口ひげをはやし、秋篠宮殿下に似てるとよく言われていたのです)

そんなこんなで、しばし懐かしい話しに花が咲いたのでありました。こういう再開は本当に嬉しいものです。当時学生だったわたしをちゃんと覚えててくれたのも感激でした。ロースカツ定食の味も当時のまま。学生時代よく通ったな〜〜。この店は。時計や灰皿やお品書きも当時のまま。

おばさんとの話しで、多少脚色したのは、14年ぶりを15年ぶりに水増し。それから松原団地恋しさに訊ねてきたくせに、「ちょっとこの先に用事があって寄ってみた」と嘘をついたことかな。明日はサントリーで札響の東京公演だけど、前日のこの日は中年男の単なるプチセンチメンタルジャニーなのでありました。こうところでつまらない見栄を張ってしまうあたり、我ながらまだまだ小物だな・・。

定食を食べおわり記念写真。リュックからカメラを出すと、会話の一部始終を聞いていたであろう、隣の席の多分獨協の学生らしき男の子が、「僕が撮ります」、とすかさず申し出てくれました。
なつかしい定食屋さんでの記念写真。「また来ます。」と名刺を置いて店を出ました。お代は受け取ってもらえませんでした。


記念写真。HPアップの許可は取ってませんが・・・。まあ、許してくれるでしょう。

20代前半の自分に再会できたような数時間でした。誰でもそうだと思いますが、夢多き年ごろですよね。若き日の自分に少しパワーを貰った気がしました。たまには過去を振り返るのも悪くないものです。すっかり陽は暮れていましたが、洗われた気分で帰路につきました。  【おわり】


2004年10月20日「秋葉原よ、どこへ行く!」(調査)

東京公演のついでに、今変貌が著しいと噂の秋葉原に行ってきました。
東京に住んでいた時はCDを買うために足しげく通った秋葉原も、すっかり足が遠のき、今回行くのは5年振りくらいです。

私の東京在住当時(80年代)は、秋葉原の主力商品がテレビやオーディオなどのいわゆる家電で、ワイシャツにネクタイの上からハッピというお決まりの格好をした店員が、店の前で呼び込みをする声で活況を呈していました。この呼び込みが激しすぎ、客足が遠のくなどと問題になったりしていたものです。当時の国電秋葉原駅周辺には古く入り組んだ路地が残っており、「○○無線」などと看板を掲げた店と呼べるのか・・、ブースが並び、これを売って生計が成り立つのか?、と不思議になる怪しげな電気部品などを売ってたりしました。

90年代に入り、秋葉原の主力商品は家電からパソコンに移ったのはご存じの通りです。80年代は店員が、「そんな事も知らんで買いに来たの?」と言わんばかりの客を見下した接客態度が相場だったパソコン店も、すっかり大衆化して入りやすくなったのもこの頃です。

5年ほど前にPC部品を買いに、東京公演のついでに秋葉原に立ち寄った時は、活気のなさが目につきました。ネットの普及でわざわざ秋葉原に足を運ばなくても、安い商品が買えるようになったのが原因か、それとも郊外の大型店に押されてか、理由を色々想像し、かつて秋葉原を愛し足しげく通った身としてその衰退に一抹の寂しさを感じたものです。

ところが今回、秋葉原のただならぬ変貌の噂を耳にし、あくまでも”調査”のために足を運びました。
噂は本当でした。秋葉原は見事に不死鳥のごとき再生を遂げていました。しかし!!。これでいいのか?。秋葉原・・。
街の中心は石丸電気など家電店が並ぶエリアから、中央通り沿い上野方面に移っており、そこにはいわゆる美少女キャラを扱った同人誌、フィギュア、同人ソフトなどを売る専門店、あるいはコスプレ喫茶などが軒を連ねています。秋葉原が”ヲタクの街”になったのをこの目でしかと確かめてきました。


画像はイメージです

ヲタクって言葉も微妙で、昔は『二人称代名詞に「おたく」という語を用い、ある特定の分野に偏執狂的にのめり込み、できれば定職についていないのが望ましい』、くらいの定義だったように思いますが、最近使われるヲタクという語のニュアンスは『美少女キャラを扱う同人誌、フィギュア、アダルトゲームなどに偏執狂的にのめり込む』という狭義の意味に使われている気がしてなりません。
試しに中央通りにあるごく標準的なヲタクグッズを扱う店に入ってみました。あんまり浮いてない自分がちょっと嫌だったのですが、もしこの店が札幌にあっても、僅かながらも顔バレしてる自分は”調査”と言えども絶対足を踏み込めないな・・、という品揃えでした。下の表はその店の案内図です。

4F ハイパーインディーズ同人誌

3F インディーズ同人誌

2F フギュア・同人ソフト

1F 商業誌

B1 美少女コーナー・古同人誌・買取り

地下一階に敢えて”美少女”と銘打ってる理由は分かりませんでしたが、全ての階がエロ美少女グッズで満たされてました。
古同人誌はいわゆるビンテージ物です。2階のフィギュアがまた凄い。キットの他に制作、着色済みの物が数万円の値段で飾られれてました。
平日の夜8時くらいでしたが、店内は20〜40代の男で賑わってました。スーツ姿はほとんどいないです。Gパンにジャンパーって感じの格好の人たちが黙々と品定めしてました。

下のグラフをご覧ください。
これは私の記憶と直感を元に作成した秋葉原に出店する店舗で扱う商品の推移です。グラフが示すとおり、00年代に入ってから秋葉原は電気街からヲタクの街へと変貌を遂げています。
主から従へと転じつつある電気関係商品を扱う店も90年代後半よりは活気が戻ってきた印象を受けました。例えばDVDーRなどのメディアは10枚3〜400円で店頭で投げ売りされていたり、足を運ぶ価値は充分あると思いました。
街を支えている客層が何であれ、秋葉原は死なずにすんだと言えるのかもしれません。

80年代・・・家電(50%), パソコン(30%) マニアックな電気部品(10%) レコード店(5%) その他
90年代・・・パソコン(40%) 家電(40%) レコード店(10%) その他
00年代・・・パソコン(30%) 美少女ヲタク物屋(30%) 家電(20%) コスプレ系飲食店(5%) その他

ある巨大BBSで、秋葉原でここのとこ人気のあるコスプレ店員がいる喫茶店の話題で盛り上がっているのを目にしました。○○店の○○ちゃん、で話しが通じる世界。はたして彼らのうち誰か一人でも○○ちゃんに声をかけた人はいるのだろうか・・。バーチャルには詳しくてもリアルは知ってるのだろうか・・・。秋葉原の変貌を垣間見て日本の将来に一抹の不安をいだくのはナンセンスなんだろうか・・・。
そもそも、男が作った男の妄想を100%形にした美少女キャラを男が買い求め萌える、という構図に彼らは疑問を感じないのだろうか。
いや、まてよ・・、自分の中に僅かながらでもヲタクが巣食っていないとはたして断言できるのだろうか・・。・・。・。


2004年9月16日「風害」

台風18号が札幌周辺を襲った9月9日、札響は盛岡にいました。楽員たちはTVや留守家族からの電話などで断片的な情報は得ることができたものの、そこは台風慣れしてない北海道人の悲しさ、「どーせ温帯低気圧になっちゃったんでしょ」とたかをくくっていたのですが、札幌に帰ってきて唖然・・。わたしの住む家の裏の林は冗談抜きで木が半分に減っていましした。市内いたるところ倒木がゴロゴロ・・。

この惨状、札幌の人は皆知ってるので、いまさら敢えてここに書くのも何ですが、東京方面の人も当HPを見てくれてるみたいだし、敢えて書きます。酷いです。美しい並木がまるでゴジラが通った後みたいになっているのを見るのは悲しいです。胸が潰れる思いです。「台風ってさ、なんかワクワクするよね〜〜〜〜」とかってもう絶対言いません。ごめんなさい。神様許してください。

台風が北海道を襲っている最中、札響は東北旅行中だったのですが、テレビを見ても、ニュースでは報じられず、新聞にも「北大のポプラ並木倒れる」なんてベタ記事が載ってるくらいです。よその地域の台風情報なんてあんまり報道しないんですね。考えてみれば、九州地方の台風だって、街中浸水した!!とか、土砂崩れで家が五軒くらい埋まった!!クラスのニュースしか北海道には流れてきませんもんね〜。

今日は定期演奏会でキタラに行ったのですが、キタラは市内でも特に被害の大きかった中島公演内にあります。本当に酷い風景に変わり果ててました。悲しいです。
以下、キタラ周辺の写真です。


倒れた白樺が公園の遊歩道とベンチを塞ぐ。この木は文字どおり根こそぎ倒れた。


同じ方向に折れ曲がった3本の木。強い西風に襲われたことを身をもって語る。


クレーンで倒壊の恐れのある木を除去している。歩道脇には伐採された木が積まれている。市内のいたるところで見られる風景。


鬱蒼としたポプラ並木が印象的だった地下鉄中の島公園駅。並木は消滅し、青空と遠くのマンションが白々と顔をのぞかせる。

報道によると札幌市内の並木は6千本以上倒れたそうですね。まだまだ被害は拡大していくんだと思います。見たところ、ポプラが圧倒的に弱いですね。図体がデカい割に根が小さい。イチョウは強いですね。ナナカマドと白樺はまあまあかな。アカシアも意外と健闘。ポプラで並木作るのもうよしましょう。>えらい人。

とにかく!、もう台風は懲り懲り。


2004年9月6日「会津若松より」

この秋の札響はとにかく演奏旅行が多いです。9月4日〜8日は東北旅行。会津田島町、秋田県上小阿仁村、岩手県釜石市と周ります。文化庁の移動芸術公演なのですが、文化庁のはめったに行かない場所によく行きます。9日に北海道に帰ったと思ったら翌日は道東の音更町、清水町。札幌での定期演奏会を挟んで中旬には釧路、網走があって、9月30日からは函館の隣の松前町方面への旅行があり、10月17日は東京公演。帰ってきたと思ったら、28日から宮城、青森とまだまだ続きます。そういった遠方の合間に小樽や室蘭といった中旅行が続きます。

忙しさを自慢するわけではないのですが、この秋のスケジュールを眺めているうちに、いてもたってもたまらず、新しいノートパソコンを買ってしまいました。わたしと同じことを考えた人がけっこういて、この旅では新しいノートPCのお披露目会になりました。

今は秋田のホテルからつないでますが、昨日は会津にいました。昼間の演奏会が終わってから日没までのわずかな時間に、走って観光しました。会津はご存知のとおり、幕末好き垂涎の地でもあります。

荒城の月に舞台にもなった鶴ヶ城は残念ながらバスの中から眺めただけ。


白虎隊自刃の地。碑が立っている。ちょうどこの場所からこの角度で炎上する鶴ヶ城を見て落城したと思い自刃に及んだそうな。


拝みシリーズ第2弾。近藤勇の墓。千葉の流山で西軍に捕まり京都の三条川原に首が晒されたが、何者かに持ち去られたのは有名。その首を土方歳三がこの地に埋葬したそうな。真偽は不明。このころにはすでにあたりは薄暗くなってました。

このあとタクシーの運転手さんの案内で歴代藩主の廟所にも行きました。松平容保の墓にも参いってきました。そのころは完全に夜で懐中電灯で足元を照らしながら行きました。運転手さんの話はなかなか興味深く、会津市民に語り継がれている戊辰戦争の生々しい話など聞けました。

今日は移動日です。東北新幹線と秋田新幹線を乗り継いで秋田泊です。二階建ての変な形の新幹線に乗りました。むにょ〜〜っとした形で少し気持ち悪いです(笑

毎日飲んだくれているので今日は休肝日。ホテルでおとなしくPCと戯れています。おわり。


2004年8月19日「札幌ドームに日ハム対ダイエー観戦に行く」

このコーナーの更新も久しぶり・・。見放されたらいやなのでたまには更新しなくては。

というわけで、昨日生れて始めて野球観戦に行きました。野球は大の苦手というか超インドア派の私には関りの無いことでしたが、日ハムが北海道に来てからは、地場産業を盛り上げるというか、北海道経済を潤すというか、健全な郷土愛を育むというか、そういう気持ちから感心がないわけではありませんでした。

札響の金管セクションが日ハム戦の開会式にファンファーレを吹きに行ったのは、記憶に新しいです。マウンドに並んで演奏したらしいのですが、3万人の観衆から一斉に送られる歓声の凄さ、ドームの広さなど、金管の人たちが興奮気味に語るのを横目で見ながら、ちょっとドームに行ってもいいかな、という気になりました。

で、野球には大変詳しいホルンの市川さんが、楽員を率いてちょくちょくドームに観戦に行くのですが、誘われること数度目にしてやっとこの私もドームに行く決心をしたのです!(大げさな・・)

19日の試合はダイエー戦でした。知ってる選手といえば日ハムの”しんじょー”とダイエーの王監督だけ。これでちゃんと盛り上がれるのか不安。4時15分会場。6時開演・・、じゃなくて、プレイボールなので4時10分にドームの入り口で待ち合わせ。プレイボールまでの2時間はビールを飲んだり、軽く食事をしたりして、プレイボールに向けて気持ちを昂揚させるのだそうです。これが作法なのだそうです。それと会場で配られていた写真付きの選手名鑑を頭に叩き込みました。

外野席(自由)のチケットは事前に買ってあったので、既に長蛇の列が出来てたのですが、並んで中に入りました。外野席のちょうと新庄が守るセンターの近くの前から数列目に陣取り、作法通りビールを飲みました。ビール売りのオネエサンが沢山歩いていて手を上げると、ささっと寄ってきて、それはそれは愛想よくビールを注いでくれます。そいえば、ビール売りのオネエサンだけでなく、会場の従業員たちは皆とても感じ良いです。安心して試合観戦を楽しめる雰囲気。これは見習わないといけないですね〜。

新庄がこんなに近くに。すごい人気者なんですね。CMで見るくらいでそれ以上の知識はなかったのですが、ファンサービスがすごいですね。これも見習わないといけないな・・・。声援を送る観客にそれとなく返す人懐っこい笑顔や仕草・・。ん〜。これは人気でるな。

外野席の応援の様子。外野席にはオフィシャル応援団と私設応援団がいて、観客の応援を扇動してました。こういう人たちがいるから統率の取れた応援になるんですね。内野席は静か〜〜な感じでした。熱気に浸りたい人は外野席がお薦めです。

4回裏。逆転満塁ホームランを打った新庄に声援を送るチェロ奏者とホルン奏者。点数が入ったら、その選手の応援歌を歌い、♪おーいおーい北海道〜〜〜、の歌を振り付きで歌うのが作法のようでした。もちろん私も歌いました。作法は大切ですからね。

結局14対2で日ハムの圧勝。入場料1,500円で数時間たっぷり楽しめました。

最近、合併問題などの新聞記事やTVニュースをよく目にしますが、オーナー(理事)がいて、監督がいて、選手がいて、古田は選手組合(でしたっけ)、の委員長で・・、などなど。社会的な成り立ちがプロ・オーケストラととってもよく似てます。選手たちに少し親近感を感じたりもしてる今日この頃なのでした。


2004年6月15日「北海道神宮祭に行く」

今日はバレエの練習が早く終わったので北海道神宮祭に行ってきました。ズラーっと露店が並ぶ中島公園の会場には、ほぼ毎年子供の頃から行っていたのですが、公園内にはご神体も神社もなく、何を祭っているのかイマイチ不明。露店に始まりお化け屋敷に終わるという謎のお祭りであることに最近気が付き、(実は薄々気がついてはいたが)、今年は実に生れて始めて、本家本元の北海道神宮に直に乗り込むことにしました。

円山公園駅のあたりまでタクシーで行き、大通りのどん詰まりの所から公園を抜け、歩いて本殿を目指しました。夕方5時頃でしたが、公園内はまあまあの人ごみです。階段を登ったあたりから何故か沿道でフリーマーケットが開催されていました。恒例なのでしょうか。古着や手作りアクセサリーや、エスニック調の小物なんかを置いたブースが並ぶ、見事に”フリマ”したフリマでした。両脇に並んだフリマ店で、ただでさえ狭い遊歩道がさらに狭くなり、人並みで立ち止まって見ることはほぼ不可能。祭りの雰囲気とも違和感を醸し出し、意味が掴みにくい企画でありました。

フリマ地帯をようやく抜け、神殿が近づくとようやく見慣れた、たこ焼きや綿飴を売る露店の並ぶエリアに出ました。それを見た4歳の娘が、「やっとお祭りになったね」と一言。4才児にもフリマ地帯は祭りと認識されていなかったのか・・・。まあ、それはいいとして、神宮に出店するには厳しい抽選を勝ち抜かなければならないと聞いたことがあります。スペースが無いため店の数が限られているのでしょう。どの店も行列ができています。焼き鳥とたこ焼きは長蛇の列ができてました。ここに出店できたら笑が止まらないのではないでしょうか。物凄い活気です。

で、やっと本殿。猿回しが来てます。面白かったです。「皆さまの暖かいご支援と、暖かいお捻りが支えです」とのこと。このフレーズは使えそうだな・・。

本殿内ではちょうど奉納舞が演じられていました。雅楽の生演奏付きで3つほど演目がありました。「職員による」とアナウンスがありましたが踊りも演奏も雰囲気もあり上手でした。奉納舞の他にも山車など色々奉納行事があるようです。奉納舞をゆっくり見物して、フランクフルトを食べて帰ってきました。

けっこういいじゃない。北海道神宮祭。

P.S.神宮会場に露店が増え過ぎて露店専門の中島公園会場を作った、とか昔聞いたことがあります。真偽は不明。


今日見た奉納舞のひとつ。太陽に捧げて豊作を祈る・・、とかだったような・・。


2004年6月8日「自然に親しむ」

最近運動不足のため体力の衰えと腹に脂肪を感じます。わたしは痩せ過ぎと言われるので、身体全体に脂肪がついてくれる分にはむしろ歓迎したいのですが、腹だけにボテっと脂肪がつきます。これでは地獄の亡者”餓鬼”をほうふつとしてしまうので非常にまずいです。歓迎できません。よって季節も良いことだし、子連れでウォーキングに勤しんでます。

うちは山が近いので、ただ歩くのはもったいないので自然に親しむようにしてます。カメラを下げて草花の写真を撮ったりしているうちに、「これが人間の生活か・・・」と精神まで健康になって、急に早起きをしだりたりと、ウォーキングの効果は絶大です。このままいくと禁煙までしかねない勢いです。人格が変わってしまいそうで少し怖いです。

今日は4歳の娘と家の近くの円山を登山しました。円山はたしか標高100メートルくらいだったと思います。小学生の頃は夏場は週に2度は登りました。一般の登山道は北斜面にあって比較的なだらかです。大人だと30〜40分で登れます。しかし、わたしの住んでいる所は南斜面が最寄りです。南斜面にも一応登山道はあるのですが、立ち入り禁止の札が立っています。急過ぎて危険なのです。これを当時は登り10分、下り5〜6分で往復したものです。子供の記憶なのであてになりませんが、とにかく非常に早く登り降りしたわけです。

当時は健康のためにやっていたわけではなく、目的は昆虫採集です。円山は実は蝶の生息地として有名で、頂上付近には蝶の通り道がいくつもあります。蝶は決まったルートをグルグルと回って生活してるのです。そのルートを発見しさえすれば、そこで捕虫網を構えて待っていると捕えることができます。カラスアゲハなど大型の蝶を捕まえて標本にするのが大好きでした。今考えると捕まえてはいけない蝶まで捕まえてたような気がします。

捕まえた蝶は、傷付けないようにその場で殺して三角に折ったパラフィン紙に収納して、家に帰ってから、発泡スチロールとサランラップで作った台に丁寧に羽を広げて標本にするわけです。クラスの男の子たちの間で流行っていたのですが、今考えるとこの趣味は、男が生来持っている征服欲や支配欲と無関係ではない気がします。・・・・ま、それはいいとして。−−−−当時駆け上がった南斜面はほとんど垂直の断崖もあるので、今日はノーマルに北斜面の一般登山道から登りました。

子連れなので1時間くらいかけてゆっくり登りました。せっかくなので円山に生えている木の名前を覚えながら登ることにしました。木の名前って言えますか?、エゾマツ、トドマツ、アカシア、白樺、ポプラ、桜、ナナカマド、まあこのくらいは誰でも言えるでしょう。しかしながら、よく目にするけど目立った花も実もつけず、春に芽吹いて秋には枯れて散っていく何の変哲もない雑木の名前って全然知りません。最近、近所の山々に生息してる木の名前なんかをスラスラ言えたらカッコイイな・・、と思っていたのでちょうど良い機会です。写真を撮ってきたので一緒に覚えましょう。そして彼女や奥さんに、「ああ、これはブナ科のエゾヤマナンチャッテモドキだよ。」とさりげなく教えましょう。尊敬されること請け合いです。

今日撮影した木の写真たち。(大変な労力で縮小・張りつけしたので心して見るように!)


アサダ(カバノキ科)


アズキナシ(小豆梨)


エゾヤマザクラ(バラ科)


ハリギリ(ウコギ科)


ハシドイ(ドスナラ)


ホオノキ(モクレン科)


イヌエンジュ(マメ科)


キタコブシ(北辛夷)


オヒョウ(ニレ科)


オオバボタイジュ(シオノキ科)


シオノキ(シオノキ科)


シラカンバ(カバノキ科)


ヤチダモ(モクセイ科)

円山頂上から見た札幌。中央の目立つ通りは南9条通り。右に藻岩中腹の仏舎利塔がポチっと見える。


2004年3月20日「ニコンD70を買う」

3月19日は待ちに待ったニコンD70の発売日であった。ニコンD70とはニコンのデジタル一眼レフカメラのことである。

去年から今年にかけて本業以外のとっても苦労したある仕事で報酬をいただいたので、それでかねてより欲しかったニコンD100を買おうと思ったのだが、D100も発売から既に2年近くが経っており、そろそろ後続機が出てもおかしくない時期。キャノンのEOSkissデジタルが10万円そこそこでバカ売れしてるのだから、ニコンだってそろそろ汎用デジタル一眼レフを発売してもおかしくない頃だ。いや遅過ぎるくらいだろう。

以前、キャノンのパワーショット400を悩みまくって買った揚げ句、1週間後にパワーショット300の発売という苦い経験から、今回はネットの掲示板をくまなく見たり、マスコミ関係者に情報を求めたり、慎重な情報収集活動にあたった。

その結果ニコンが発表する少し前、去年の年末段階でニコンがかなり高性能な汎用一眼レフカメラを来春発売する、との信用できる情報を得た。本体実売価格も10万円強らしい・・。D100は多くのプロユーザーが使っているのを見かけるので信頼できるカメラだと思うが、さすがに発売から2年。カメラ雑誌のレビューを見ても新発売のカメラのCCDには見劣りするものを感じる。ここは後続機の発売を待たない手はないだろう・・。

そして待つこと2ヶ月余、3月の初旬に予約が殺到しているとの情報を得て慌ててカメラ店に予約を入れた。どうやらこの情報はガセネタだったようだが、まあよい。ここまで待ったのだから不安を払拭するに僅かな労を惜しむべきではないだろう。

そしていよいよ発売日前日。カメラ店から入荷の知らせの電話が入った。すぐにでも取りに行きたかったのだが、翌日の重要な会議の資料整理のためそれどころではなかったので、本来の発売日、19日の午前中に取りに行った。この日も忙しくラジオ出演の後演奏会、その後夜遅くまで会議だったので、箱から出すことも出来ずに一日時を過ごした。このジリジリ焦らされる感じがなんとも心地よかったりする。

夜遅く帰宅し箱を開けて手に取った。しかし、今日もまた翌日の重要な会議の準備でカメラと戯れることも出来ず、しかも時間がなく焦って店に取りに行き、レンズ保護用のUVフィルターを買うのを忘れてしまったので、手に取るだけでおあずけ。でもEOSKissみたいなちょっと安っぽい作りだとイヤだな・・。(EOSkissユーザーの方失礼)と思ってたのだがその不安は解消され一安心。

そして今夜。やっとカメラと戯れることができた。長かったな〜〜〜。だいぶ前、友人の業界関係者に強引に頼み込んで入手した憧れの「Nikon for professional」という刺繍入りのストラップをマイ・カメラに付ける日がやっと来た。手に取った感じも悪くない。レスポンスも早く性能も良さそうだ。銀塩カメラでは中学生の時に買った中古のニコマートFTNに始まり、最近はF90Xを10年近く使っていたが、D70の操作性も長年のニコンユーザーの手に馴染むものであった。ああ幸せ。


実売価格レンズ付き167700円(税込み)のニコンD70と「Nikon for professional」ストラップ。


「Nikon for professional」ストラップ。通し番号(モザイク部分)の入った本物。これを付けてると修理代が無料になるとか・・・。くれた人に塁が及ぶ危険があるので試す気はないが。


2004年2月14日「水に音楽を聴かせる」

今日はおもしろい仕事をしてきました。

観客は「水」です。なんでも、分子レベルにまで至ると水は物事を”記憶”するそうです。

ロシアの物理学者ペトリアノフという人が論文を書いて、何とかいう賞ももらったそうです。

植物に「バカとかアホ」とか書いた紙を見せて育てるのと「幸せとか美しい」とか書いた

紙を見せて育てるのでは、育ち方が違うのは有名な話しですよね。

で、北海道を拠点に世界で活動されているアーティストの端聡さんが「水」をテーマに

面白いことを色々となさってて、この方とは以前も仕事でご一緒させていただいたの

ですが、今回は北海道の食とアートを何とか絡めて商品を作っていくという、

蝦夷(えぞ)に絡めた「E2O」というプロジェクトの一環で、既にトマトジュースとか

コーヒー豆なんかが全国発売されているのですが、次なる商品は端さんプロデュースの

「バッハやモーツァルトの音楽を聴かせた京極(羊蹄山)の天然水」なのです。

わたしもイマイチ全貌を把握できてないのですが、テレビや新聞が沢山取材に来てた

ので、かなり大きなプロジェクトのようです。

来週明けにはUHBとかSTVの夕方の番組で特集があるそうなので映像も映るかも。

札響のオーボエの岩崎さんと二人でバッハのG線上のアリアなど数曲を、ズラーっと

並んだカッコイイガラス瓶に入った水に向かって演奏してきました。

水に向かって大真面目に演奏するというのはもちろん初めての経験で、面白かった

です。今回の演奏風景のCDも付いて発売されるそうなので、興味のある方は

是非お買い求めください。心をこめて演奏しましたが、一発取り(しかも早朝)だったので、

”水に流して欲しい箇所”もありますが・・・・・(笑

「E2O」のページ:http://www.keeeen.com/event/event.html


2004年1月2日「されど お年玉」

皆さま。よいお正月をお迎えですか?
お正月と言えば、凧揚げ、カルタ、百人一首、コマ回し・・・。そういう伝統を子供に伝えなくてはなりません。そう思って先日カルタと百人一首を買いに老舗デパートに行きました。すると、何やら「セーラームーンカルタ」とか「北海道弁カルタ」とか下らない(失礼)カルタが数種類、申し訳程度にワゴンに並べてありました。”犬も歩けば棒に当たる”系の伝統的なカルタが無いのです。絶句して、大手本屋に行きました。すると何としたことか。そこには百人一首すら置いてませんでした。

世を嘆いて佇んでいると、「荒木さん!」と私を呼ぶ声が・・。振り返ると買い物中の北海道新聞記者の某氏が私を呼んでいました。「今年もお世話になりました・・」と挨拶もそこそこに、日本の伝統が危うい現状を切々と訴えました。是非記事にしていただきたいところです。

話しは飛びますが、百人一首って北海道の独自ルールがあるって知ってましたか?。下の句を詠んで下の句を取る。そして下の句が書いた札は木の札。これが北海道の独自ルールなのです。「え?それって当たり前じゃん」って思ったあなた・・・。本州では上の句詠んで下の句取るんですよ〜。そして取るのは木の札ではなく、紙の札なのです。実は私も最近知ったのです(恥

さて、ここからが本題。
お正月と言えばお年玉ですね。わたしのところも子供がもうすぐ4歳。姪もいて来年は更に子供たちが増殖する予定です。親しい友人の子供たちも中学生がちらほら現れ始めました。
今までの人生振りかえって、お年玉はあげるより貰った記憶のほうがまだまだ圧倒的に多い年ごろですが、これからはひたすらあげる側に周る事になるわけです。

子供のころの記憶をひもとくと、私は3人兄弟の長男だったのでいつもお年玉は兄弟の中で最高額でした。2つ下の弟は今でも「兄貴とはいつもお年玉の額に差を付けられて悔しい思いをした」と言います。親に兄弟姉妹が多かったので従兄弟も沢山おり、私の親からは「貰ったお年玉の額を必ず申告しなさい」と言われていました。

今から思うと、私の親の兄弟姉妹で子供たちにあげる額を調整するために必要な措置だった事がわかります。例えば私は3人兄弟ですが、一人っ子の従兄弟もいます。親同士ではこの辺の微妙な駆け引きもあったんだと思います。子供同士でお年玉の額を見せあうと一人っ子の従兄弟のほうが同じ年でも私よりも取り分が多かったりしたものです。また、父方、母方の家の習いでもお年玉の額に随分と差があったように思います。

妻とこの話しをしたのですが、同じ兄弟姉妹でも男と女で額に差を付けられて悔しい思いをしたそうです。妻は兄と弟に挟まれた3人兄妹なのですが、兄だけが一人額が多く、妻と弟が同額だったそうです。大人になってみるとその辺の落とし所はなんとなく理解できるのですが、子供の身になると納得できないのも分かり微笑ましいです。

わたしの家もそんな世間にありがちな状況だったのですが、親達はある年を境にお年玉の額の申告を強要しなくなりました。親戚の子供同士でお年玉の額を見せあうと年齢で綺麗に横並びになっていました。どうやら駆け引きが面倒になって親同士で協定を結んだようです。

かくしてわが実家のお年玉には定期昇給が導入され年齢給に移行しました。高収入の家も子供の多い家も少ない家も関係なく、子供の年齢に応じて適正と判断した額を与える制度にしたようでした。これはとても良い制度だと思うのですが、適正な額を決めるのに少し手間がかかりそうです。

新聞などで聞くところによると、クラスごとにお年玉の額を生徒に申告させてグラフにする学校があるそうです。何かの学術調査でもない限り、わたしに言わせれば醜悪な覗き見趣味と言わざるをえませんが、お年玉で数十万円を集金する小学生がいるとか・・。これは明らかに与え過ぎで狂っています。親の常識と金銭感覚を疑います。日常、親が必要と判断したものは買い与えて、その上でのお小遣いなわけです。お年玉っていうのは。本当の給料じゃないんだからあげ過ぎはいけません。

じゃあお前はいくらくらいが適当と思うんだ?、という疑問にお答えしてわたしのスタンダードをご披露します。

年齢

額(三親等以内)・・当然ながら非課税(笑

0才

0円

1才〜5才

500円

6才〜8才

1,000円

9才〜10才

2,000円

11才〜12才

3,000円

中学生

5,000円

高校生

5,000円(特に必要と認める場合のみ10,000円)

この辺が落とし所と思います。
あげる対象が遠い親戚や友人の子供など三親等に及ばない場合は額が1ランク下がります。これは当事者の子供の親などに対する配慮として必要かと思います。

子供にとっても貰う対象が一人というのは通常考えにくく、自分の親とおじいちゃん、おばあちゃん、叔父、叔母、その他親戚など複数に及ぶこと。
お年玉の用途は若年層の場合、駄菓子や低額の玩具。中年層では書籍、CDなどが加わり、高齢層では若干の交際費を見込んでもトータルで3〜4万円がいいところです。これ以上の額を与えると非行に走ります。

パソコンが欲しい。カメラが欲しい。天体望遠鏡が欲しい。など高額の要求がある場合は必要性を訴えて子供は親を説得するべきです。お年玉は親にとって使途不明金なわけで、家庭における理事者としては安易に増額するべき項目ではないはず。

そんなこんなで思いをめぐらしていると、お年玉ってのいうのは貰うのも楽しかったけど、あげるのも理事者気分で楽しいね〜。がはははは。

 

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