読み返してみるとやはりつまらないボツ原稿・・・。考えが頭の中で回っちゃってて人を引き付ける物がない。何度か読み返さないと何を言いたいか分からない。要するに”一人分かり”なんだね〜。文章って難しい。っていうか人に伝えるのって難しい。人を楽しませるのはもっと難しい。「これはボツ原稿なんだ」って思って楽しんでください。あ、念のため。「ボツにされた原稿」というより「T氏と相談の上ボツにした原稿」です。と一応言っておこう・・。 |
『職業欄』 いろいろな書類の”職業欄”の箇所でいつも一瞬ペンが止まる。職業が沢山並んでる中から選択する方式の場合は「演奏家」なんていう項目は絶対ないので「その他」にチェックを入れる。しかし「その他」の横にたいていはカッコがあって職業を具体的に書くようになっているので、結局そこで迷うことになる。 この仕事を始めた当初は「演奏家」とか「音楽家」などと書いて、一人嬉し恥ずか照れ笑いを浮かべたものだが、最近は偉大な人々を知りすぎて、逆に自分を「音楽家」などと大層に呼ぶ気が失せている。この業界には、才能溢れる演奏家を差して「彼は音楽家なんだよ」という褒め言葉があるくらいだ。「彼は芸術家だよ」に至っては皮肉以外に使うことは一生に数度あるかないかではあるまいか。 真の意味での「音楽家」を目指す努力を放棄する気はないが、一般的にオーケストラの楽員というポジションは、あくまで音楽家として生きる道を選ぶのか、職人として一流を目指すのか、常に気持ちが揺れ動くものなのかもしれない。 かといって「芸人」「芸能者」あるいは「職業的舞台上楽器演奏者」などと書いてみたところでどれもしっくりこない。 その点「アーティスト」という言葉は便利だ。ファジーに全てを包み込んでくれるし、適度にプライドを満足させてくれる。新聞や雑誌に外来語が増えるわけである。 海外での入国審査の職業欄にはアーティストの選択肢があるので重宝する。日常国内では敢えてストイックに「団体職員」と書いている。いつの日か「音楽家」と書く気になるまでのモラトリアム的措置と位置づけている。
『亜種』 ひとつのアリの巣に5%の割合でまったく働かないアリが存在するそううだ。いくつかの巣から働かないアリだけを集めてひとつの巣を作らせると、またその中から5%のアリが働かないアリになるということだ。 いろいろな社会に応用できそうな話しで面白い。オーケストラ社会もこのアリの巣に似ていなくもない。 わたしは音楽大学に行く前に普通の大学の経済学部に籍を置いていた。このころのわたしは周囲からチェロがとても上手な芸術家肌の人、という見られ方をしていたし、奇抜で直感的な芸術家の役を演じて楽しんでいた。 プロオーケストラの楽員は皆子供のころから楽器が上手だったはずで、学校などでは多少なりともそういった役割を演じてきたはずだ。 しかし、社会で芸術家肌の人間を百人近く集めて集団を作ってみると、全員が芸術家肌でいられるわけではない。あるものは演奏会依頼を頻繁に取ってくる商売上手な営業マン風、あるものは組合活動が得意な理論家風。研究熱心な学者風の人のもいれば、若い女の子たちには給湯室会議ならぬ楽屋会議に花を咲かせるOL風もいる。皆それぞれの役割を演じて社会の縮図を作っている。 わたしは組合の役員も長いし、二番目の”理論家風”の役に分類されるが、経済学部時代の友人が聞いたら「おまえが理論家?」と大笑いするに違いない。 営業マン風も学者風もOL風も外の社会にいる本物には到底かなわない亜種なのだ。 いっぽうオーケストラ社会の中にあっても芸術家風を演じきれる者こそ猛者と呼ぶに相応しく、真の「働かないアリ」なのだ。
『”不惑の年”間近』 わたしは年より若く見られる事が多い。今年38歳になったが20代に見られる事も珍しくない 実はオーケストラ業界、老若男女問わずほとんどの人が年よりかなり若く見える。何故か、ストレスが少ないからだろうか。モーツァルトの音楽を奏でることによりα波が出て老化を遅らせれいるのか・・。α波と言えば、音楽療法というものがあるが、職業音楽家に対して施すのは止めた方がいい。日々研究の対象であり、緊張の原因になっているクラシック音楽など聴かされたら、α波どころかアドレナリンが大量に分泌されてしまう。 話しが外れたが、若く見える原因は他にあると思う。 普通のサラリーマンは取引先や社内での信用を得るには若造より年配者の方がいいだろうし、例えば医者や弁護士、あるいは落語家、狂言師、猿回しなどほとんどの職業は年齢と技量が比例するかのように見られるのが一般的だ。 だが、こと演奏家に関しては例外である。年を重ねれば熟練度は増すが、熟練度と実力が必ずしも一致しないのは何故か広く認知されている。この点スポーツ選手と似ていなくもない。仕事上、老けて見られて得をすることは何もない。よって老ける必要がないのだ。 若く見られると居酒屋では隣の客に軽口を叩かれるし、町内会の寄り合いでは軽くあしらわれたり、疎ましく思う事も多い。が、外見だけでなく、行動様式や詳しく書かないが年より若くて得をする事は他にもある。それを喜べるようになったのは、やっと自分もおじさんになれた証拠なのだろう
『禁句』 「愛と平和を訴え、演奏家の○○さんが手弁当で演奏を披露」この手の記事を新聞などで目にするたびに物憂い気持ちになる。 一見非の打ちどころのない博愛振りだが考えて欲しい。まず「愛と平和」である。現代の価値観や倫理観に照らし合わせてこの文言に異を唱える人は皆無である。翻ってこの文言を口にするのに何の勇気も主義主張必要ないのだ。 本来、言論家でも思想家でもない演奏家が主催者やスポンサーからメッセージ性のある演奏会を依頼された場合、誰からも反論されず恨まれず、何者とも利害が衝突しない文句を選ぶ。それが「愛と平和」なのだ。一方で「愛と平和」をマスコミで主張しはじめた芸能者の芸風は途端につまらなくなる。アクが削ぎ落とされ非教育的な内容を避けるようになるからだ。言い切ってしまおう。全ての芸術にはアクが必要なのだ。 そして「手弁当」。言うまでもないが、人間が生活するには金がいる。演奏家とて例外ではない。演奏家が商品にしているのは己の演奏である。いくらデフレとはいえ、ハンバーガーを無料で配る店はあるまい。演奏家が無料で演奏するのはハンバーガーを無料で配る行為に等しい。演奏家が演奏を舞台に上げるまでには、物を売るのと同じように相応のコストがかかっている。 もし聴衆が無料の演奏を持てはやすなら、プロの演奏家はこの世から死滅してしまうだろう。 わたしは保育園などで演奏を頼まれた時、たとえ一人につき十円でも出演料を頂戴している。子供たちにプロの演奏を聴くにはお金が必要という事を学んで欲しいからだ。 演奏家に絶対求めてはいけないもの、それが「愛と平和と手弁当」だ。
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