プロローグ〜第3回   第4回〜第6回   ARAKI's H.P. INDEXへもどる

第7回 バーンスタインのリハーサル

ーンスタインが指揮する7月3日の演奏会のための練習は6月の最終週くらいから始まったと思います。演奏会でバーンスタインが指揮するシューマンの2番の練習は全部で4回くらいありました。最初の2回は大植英次氏の指揮で下稽古のようなことをやりました。下稽古とは音楽的な内容よりも譜面を正確に音にすることと各楽器の旋律や伴奏を関連づけていく作業を重視した練習です。前述したように曲が決まったのが遅かったし、曲が決まってから楽譜が届くまでにも時間がありましたから、実際には私たちが譜面を手にした翌日から練習が始まったのです。

習が始まりました。佐渡氏もそうでしたが大植氏も棒の振り方はもちろん、顔の表情や仕草までバーンスタインにそっくりでした。大植氏は気さくですがとても冷静な練習を進めていました。シューマンなどやったことがない多国籍の学生オケの交通整理を淡々とこなしていきます。たまに「レニーがこうしなさいと言っていた」とか「レニーならこうするだろう」と言ってテンポなどを決めていました。

めてバーンスタインが姿を現したのが2日目の練習だったと思います。記憶が曖昧ですがシューマンの2楽章の途中だったと思います。(4楽章かもしれません、とにかく早い楽章です)オーケストラの背後のほうから例の「ストップくださーーい」が聞こえました。大植氏はすぐに指揮を止めバーンスタインの方を見ました。オーケストラも振り返りました。たくさんの取り巻きに囲まれたバーンスタインが赤い派手なサマーセーターを着て指揮台に向かいます。表情は「不敵な笑み」という感じです。指揮台に上がると派手なセーターを差して「いいセーターだろ」と言って場の空気を和ませました。

しはじめると時折猛烈に咳き込みます。ゆったりとした服で目立たなくはしていましたが、腹がものすごく出ていました。額には脂汗が浮かんでいるように見えます。人前では巨匠の態度を崩すことはなかったものの、かなり病気が進行して辛かったのではないかと思います。

ーンスタインがオーケストラに向かって指示を出します。「そこはチェロとコントラバスが八分音符を刻んでるから、バイオリンはそれを聴きながらね・・」「そこの旋律はオーボエが主役だから皆はオーボエを聴いてバランスを作りなさい」。どれも基本的なことばかりです。世界の巨匠もこういう基本的なこと言うのか・・とあたりまえのことに妙に感心しました。

ーンスタインが大植氏に指揮棒を渡しその箇所を振らせます。しばらくして演奏を止めて今度は歌いだしました。低音でかすれた声で「ダバドゥビダバドゥビ・・・」と歌います。歌っている姿は完全にヤンキーです。しかし「昔はもっといい声だった・・」と言ってまた咳き込みました。

後の練習日にNHKのテレビカメラが入りました。報道や記録用のカメラはいつも入っていたのですが、この日のカメラはリハーサル全てを収録するためのもので、後にNHKで「ザ・ルハーサル」として放送されたりレーザーディスクにもなりました。この日の練習は本当に感動的でした。オーケストラのアンサンブルは既にほとんどきであがっていました。バーンスタインがこの練習でオーケストラの演奏に魂を吹き込む作業をしようとしていることは誰の目にも分かりました。

番印象に残っているのは間除楽章にあたる3楽章の時です。テンポは普通耳慣れた演奏よりかなりゆっくりでした。普通の演奏家が真似をすれば冗長で聴いていられなくなるかもしれません。バーンスタインの指揮棒がゆっくり宙を舞っています。練習場は100人近いオーケストラの他、PMFのスタッフやバーンスタインの取り巻きやテレビ関係者でぎっしりでしたが恐ろしいほどの静寂に包まれていました。その時NHKのカメラマンがコードに躓いて大きな音を立ててコケるハプニングがありました。バーンスタインは「プリーズ・プリーズ・・・・」と言って苦笑していました。

3楽章は低弦で静かに幕を閉じます。付点のリズムや他に頼るパートもなくなかなか合いにくい箇所ですが、この話はあまりにも主観的で書くのを迷ったのですが、神秘体験のようなことがおこりました。、会場はピーンと張り詰めた空気で満たされているのに何故か自分自身はまったく緊張しません。弓を持つ手の筋肉も硬くなっていません。バーンスタインが今私を見ている気がしました。その時から弓が勝手に動きだしました。そして弓を持った右腕が糸で操られているような錯覚を覚えました。周りの音を聴くとチェロとベース合わせて20人の音が一糸みだれず合っていました。3楽章が終わるとバーンスタインはゆっくりと指揮棒を譜面台に置いて「今あなたがたが体験したことが芸術です」と言いました。

の時会場にいた人全てがたぶんそのイメージを受信したのだと思います。今でも鮮明にそのイメージを思い出せます。

 

 


(写真はPMFのページから拝借しました。個人のミクロなページなのでなにとぞお目こぼしを・・)

色々なところでよくみるこの服を着た一連の写真はこのリハーサルの時のもの。かっこいい老眼鏡をかけていた。

次回はバーンスタインの本番と記念写真

第8回 記念写真

々回からバーンスタイン礼賛の色合いが濃くなってしまっていますが、ついでにもう一つエピソードをご紹介します。

ーンスタインが札幌市民会館でシューマンを指揮した演奏会の時、仲良くなっていた日本人数人でバーンスタインの楽屋に写真を撮らせてもらいに行きました。まだPMFの日程の半分も来ていなかったので写真は最後の演奏会やレセプションでもいいと参加者たちは思っていたと思います。この日楽屋に尋ねていったのは私たちだけでした。

なり勇気がいりましたが思い切ってドアをノックするとマネージャーが現れました。マエストロと写真を撮りたい旨告げると彼は「今マエストロは休んでるから駄目だ」と言いわたし達一行を押し戻そうとしました。すると奥のほうからしわがれた声が聞こえました。バーンスタインが私たちを部屋にいれるようにマネージャーに指示したのです。

屋に入ってみるとバーンスタインはベッドに横たわり医師と思しき人物が横にいます。マネージャー他数人が部屋にいました。バーンスタインはベッドから起きあがると私たちに近づき一人一人に話しかけてきました。「君はチェロだったね・・」という調子で一人一人の楽器を当てていきました。これには驚きました。

ころで指揮者って記憶力のいい人が多くてよく驚かされることがあります。向こうから見たらこちらはたくさんいるオーケストラの中の一員なわけだし、彼らは世界中のオーケストラを回っているのでボクのことなど認識してるはずはないと思いきや、いきなり名前を呼ばれてドキッとしたりします。

れはさておき、バーンスタインはそういった指揮者の最右翼かもしれません。一緒に行ったTさんは数年前にドイツで開かれた同じような音楽祭に参加していたのですが、その時レセプションでバーンスタインと一緒に撮った写真を数枚大きく引き伸ばして持ってきていました。彼はバーンスタインにその写真を見せてサインしてほしいというと、バーンスタインはその写真を一枚一枚見てTさんに「ああ、君か・・」と言いました。Tさんはまさか何年も前に開かれた音楽祭の参加者の一人に過ぎない自分を覚えているとは思わないのでリアクションに困った様子をしました。

ーンスタインはそれに気がつき「本当に覚えてるよ。アツシ(Tさんの下の名)だろ」と言いました。Tさんの感激は想像に余りあります。バーンスタインは人の名前を覚えるのが得意でホテルのボーイでも一度チップを渡せば覚えてしまったそうです。本などで読むこういったエピソードもほら話では無いことを体験しました。もろん単なる記憶力の問題だけではない人間性の問題だとおもいますが。

屋でのバーンスタインの様子もけしておおげさではなく、休憩の度に楽屋に戻り点滴を受けたりしていました。バーンスタインの弟子の指揮者たちが振る演奏会にも必ず姿を現して、ステージの上のチューバの横あたりに席を用意して指揮台を睨んでいました。ロンドン響を他の指揮者が振る時はマネージャーたちを従えて客席に現れました。バーンスタインは紺色のダブルのスーツに白いシルクのマフーを首から下げたりして、一歩間違えるとマフィアのようです。

力的にはかなり辛かったのでしょうが、人前に出る時は胸を張り物凄いオーラを放っていました。客席で見たバーンスタインは衆目の見守るなか不敵な笑みを浮かべながらのっしのっしと歩いていました。

ーンスタインとのツーショット写真を無事撮り終え本番まではまだ時間がありました。万が一カメラの裏ぶたを開けてしまったり事故が無いとも限らないのですぐにお宝写真の現像に向かいました。結局バーンスタインはこの日の演奏会を最後に残りのスケジュールを全てキャンセルして帰ってしまったので他の参加者たちは写真を撮れませんでした。ずいぶん羨ましがられました。Tさんの話ではバーンスタインは夜の宴会には必ず姿を見せる人だったそうです。PMFではそういう機会は一度もありませんでした。

その時のツーショット写真。

 

次回は若手指揮者たちとの演奏会

 

第9回 PMFに来た指揮者たち

 

1回のPMFに来た指揮者はバーンスタインはじめ、前述の大植英次さん佐渡豊さん、マイケル・ティルソン・トーマスの他にリーフ・ブヤランド、マリン・オーサップの計6人でした。ロンドン響の演奏会は主にバーンスタインとティルソン・トーマスが振っていました。大植氏もバーンスタインと同じ演奏会でサブにあたる曲を振っていました。ブヤランドとオーサップはバーンスタイン指導の下PMFオーケストラを指揮する、というスタイルでした。

ィルソン・トーマスはPMFオーケストラではドヴォルザークの8番交響曲を指揮しました。バーンスタインの人柄が大胆でフレンドリーなのにたいして、この人からは緻密、冷静という印象を受けました。アングロサクソン系にありがちなイナゴ顔からくる印象もあったかもしれません。個人的には「凄い指揮者なんだけど距離を感じる」と思いました。

リン・オーサップは女性の指揮者です。武満の「鳥は星型の庭に降りる」とハリスの3番交響曲を指揮しました。この人はとってもよく覚えてます。何故かと言うと指揮がとっても分かりにくかったからです。もっとも分かりにくいというのは主観の問題ですしこちらの能力の問題もありますので一概に言えません。それにオーサップもバーンスタインに振り方を直されて、昨日まで(1小節を)6つで取っていたところが急に2つになったりということがたくさんあったのでそれも原因のひとつではありました。ハリスも武満も現代曲で変拍子も多く音楽的にどうこうという以前に演奏すること自体が難しい曲です。練習はどんどん険悪になって最後には指揮者はヒステリーみたいになってしまいました。

ヤランドの指揮では「展覧会の絵」が演奏されました。千歳のホールで本番だったのですが、これが北海道での最後の演奏会でした。このころになるとオーケストラもだいぶ熟れてきていてアンサンブルはとてもまとまっていました。ブヤランドの指揮についてはほとんど覚えていないのですが、ちょっと皮肉屋だったのだけ印象に残ってます。

MFではオーケストラのほかに室内楽の演奏会もありました。PMFが始まる1月ほど前に「あなたはこの曲」という具合に指定されました。わたしに割り当てられたのはスメタナの「わが生涯より」という弦楽四重奏曲です。難しい曲ですがやったこともあったので取り敢えずは少し安心というところでした。それでもかなりビビっているのでレッスンで毛利先生に何度か見てもらい、スコアも買ってきて噛み合わせも覚えてPMFが始まるころには暗譜状態に入っていました。

ころが!、ビザが降りずPMF開催に間に合わなかった中国人が四重奏のメンバーにいたため大幅な組み替えが行われたのです。わたしはドヴォルザークの弦楽5重奏組みに編入されました。・・なんてこった。この曲もかなり面倒な曲です。曲も知らなかったし1週間やそこらでは音譜を音に直すのが精一杯でした。ブラジル人のベースのお姉さんとは音程が合わないと言って険悪になるし最悪でした。どうも南米系の人たちは苦手です。それぞれの室内楽組みにロンドン響の首席や副首席の団員が指導に当るのですが、わたしのところにはコントラバスの副首席のおじさんが来ました。

幌での公演も全ておわり、東京公演と横浜スタジアムで行われる公演を残すのみとなりました。このころには既にバーンスタインはアメリカに帰ってしまっていたのですが、主催者サイドから楽員へのはっきりとしたアナウンスはされていませんでした。この点はいまでも疑問が残るところです。先立って東京で行われていたロンドン響との演奏会では前半のプログラムを大植氏が代演して、それも告知がなかったとして観客と主催者のあいだでトラブったそうです。札幌でもそのスタイルだったんですけどね・・。急に変更を言い渡すバーンスタインに主催者側も振り回されていた状態だったのかもしれませんが、楽員くらいには発表があってもよかったのではと思います。

ントリーホールで行われた演奏会は札幌でバーンスタインが振ったシューマンの2番を大植氏が振りました。演奏自体はとてもよかったと思います。2楽章の最後で1stヴァイオリンが全員立ち上がる演出は東京でもやったのですが、さすがにこれはバーンスタインがやるからこそ様になる・・・。

浜ではロンドン響とPMFの合同演奏がありました。全員出演したので凄い人数です。1stヴァイオリンは30プルト(60人)ちかくいたと思います。管楽器も倍の人数です。弦はロンドン響が表に座ってPMFが裏に座りました。わたしは半分より少し前くらいの4か5プルトくらいでした。ロンドン響は後ろのほうはエキストラが多くて中には(?)と思いたくなるオネエさんもいました。

のときのバーンスタインの代演は佐渡氏でした。オケが巨大なため袖から現れて指揮台に着くまで結構時間がかかって笑いが起きてました。

 

 

次回は最終回。「PMFが終わって」。「PMF10について」 

第10回(最終回)「PMFの発展を祈って。<愛すればこそ・・>」

年「PMF10」というPMFの卒業生によるオーケストラが編成されて話題を呼びました。PMFができて10周年を記念して、10年の間にPMFに参加して現在演奏活動を行っている人を集めてのオーケストラを作ったのです。私はお誘いは受けたものの、札響とのスケジュールが合わず残念ながら参加することは出来ませんでした。本番当日演奏会を聴きに行こうと思っていたのですが、旭川での仕事の帰り高速道路で車がボンネットから煙を噴きあげ走向不能に陥って行けなくなってしまったのでした。よほどPMF10とは縁がなかったようです。(PMF10の演奏はリハーサルと後日テレビ放映で接することが出来たがとても洗練されていて上手だった。参加できなかったのが返す返す残念だった)

がないと言えば札響とPMFというのもよほど縁がないです。

う思う理由、1)PMFの期間中、札響がPMFに出演する演奏会は2回だけ。(その2回は同じプログラムで内一回はピクニックコンサート)やっと去年から子供のための演奏会が出来て出演回数が増えた。

2)PMFのメインの指揮者は札響を指揮しない(超例外として1994年にエッシェンバッハ指揮の演奏会が1回だけあった)

3)同じ札幌にいながら室内楽などでも札響団員とPMF参加者たちとの交流の機会が全くない。

問に感じることも多々あります。この際だから書いてしまいましょう。(あくまで”疑問”(^_^;))

1)札幌市の助成金。PMF1ヶ月弱に対する助成金が札響1年に対する助成金の倍以上なのはなぜ?

2)札幌にオーケストラがありながらレジテントオーケストラ以外にもオーケストラを招聘するのはなぜ?

3)そもそもレジデントオケにも疑問。PMFオケの教育をウィーン・フィルやベルリン・フィルの首席たちが受け持つのならわざわざ海外から呼んでくる必要あるんですか? 札幌がお金出して施設を提供してるのに札幌のオケ使わないのはなぜ?

4)細かいことですけど、雷雨豪雨になっても野外でのピクニックコンサートを中止しないのはなぜ?屋根があるとはいえ楽器にとっては致命的だし、オーケストラの演奏を聴く環境とはどう考えても思えません。本当に玄人が判断しているのでしょうか?

れらって、とーーーっても田舎臭い現象だとおもいませんか。音楽に限らず文化の先進国の欧米では100%考えられないでしょう。彼らはまず”継続性”を重視するだろうし目先の派手さよりも自分たちの足元を固めていく充実感をとるのでは?。

画の段階でも札幌が金出して場所提供してPMFの事務局も置いて(PMFセンターという大元の事務局は東京にあり、さらにその大元はニューヨークにある・・らしい。これも本来疑問。)、なんでイニシアチブを取れないんでしょ・・・・。札響が実質蚊帳の外に置かれてるのも不思議だし、地元出身の演奏家だって世界的に通用してる人たくさんいますよ。本部の方針を丸のみしているとも取れる市の姿勢にはとっても疑問を感じます。大元の事務局が東京やニューヨークにあるということは、音楽文化にとってある意味演奏家よりも大切なマネージメントをする人を育てる土壌も札幌には与えられていないのです。

幌のほとんどのマスコミのPMFに対する取材姿勢にも疑問。『世界の若い才能札幌に結集』 『バーンスタインが提唱した音楽祭・○年目』 『若手演奏家の登竜門』 etc.・・・・・・・。もう少し掘り下げた取材できないんでしょうか?疑問です。現実にそくしていようがいまいがお構い無しの慣用句のオンパレード・・・。クラッシック音楽っていう一種治外法権的な、一見素人が意見したら恥をかきそうな訳のわからない敷居の高さと、”教育”という錦の御旗の前に思考停止してしまっているか、それとも実は全く興味がないかに映ります。税金から巨額の投資をしている訳ですからマスコミがそれでは困ると思うのですけど・・。

新文化部で「札響35才の今」を特集したKさん、PMFを特集して掘り下げた取材で問題提起したTさんなどオピニオンリーダーたりえる人たちが去ってしまったのも残念です。札幌に音楽ジャーナリストがいないのも現状を温存してる大きな理由の一つですね。

もそも北京で第1回を開催して環太平洋諸国を巡回して行われるはずだったPMF。天安門事件で北京での開催が不可能になり、たまたまなんとか音楽祭を開催できる施設を持った札幌に転がり込んだわけです。そのいきさつはともかく、札幌で開催して10年が経過してます。そろそろ主導権を主張してもいい頃なのでは?

札響楽員的には『メインの指揮者が私の街のオーケストラを振らないならPMFは誘致しない』くらいのカッコイイ台詞を市長に言ってほしいですね。それでこそ文化都市の面目躍如だと思うんですけど。ウィーン・フィルの首席奏者たちの演奏をありがたく拝聴するのもいいのですが、こと札響に限らず地元の文化を第一に育てていく重要性を認識していないのでは欧米と並ぶためのスタートラインにも立っていないと思います。ウィーン・フィルはあくまでウィーンのものなんですから・・。

は戻ってPMF10。卒業生は1年に100人として10年で1000人。その他に指揮者やソリストやスタッフが世界中から来て、札幌で1ヶ月を過ごし帰っていけば札幌の名を世界に広める効果があるかもしれません。でも何度も言うように金と場所などハード面だけ提供してもソフトが伴わなければ文化とは呼べないと思います。それはPMFに来ている外人たちみんな知ってますよ。せっかく札幌の名前が広まってもそれではちょっと恥ずかしいですね。

上、いろいろ書きましたが実際にPMFを運営してる人たちや、また担当の市の職員の人たちなどはかり知れない苦労がおありでしょうし、一個人の立場では到底知りえない事情も多々あるのだと思います。しかしそれらは表面化していないし問題提起されていないし、市民レベルでの議論の俎上にものせられていません。そうした状態で現実に札幌でオーケストラの仕事をしている一個人として感じることはここで書いたようなことです。夏のPMF期間中になると札響が練習場として使っている芸術の森はPMFによって狭められとても使い勝手が悪くなります。もちろんそれは仕方のないことなのですが半分蚊帳の外に置かれた(と思っている)身としては忌々しい気持ちを禁じ得なくなることすらあります。

のやり切れなさは札響団員として、というより以前に札幌市民として感じるのですが、みなさんどうですか?

上10回に渡って書いてきた「第1回PMF参加者の証言」。当初計画段階で思ったのとは裏腹に筆が進まず、結局年を越して更に年度まで越してしまいました。プロローグでは「PMFのあり方、札響とPMFとの関係に疑問は感じるがそれは書かない」と書いたものの、結局それを書かずしてこのシリーズを締めくくることはできないと思い直し迷った末書きました。

京や欧米から来たものを教条主義的に認めてしまう。また、開拓使からの歴史によるものでしょうか、「官に頼りすぎる」という悪癖が私も含めた北海道人にはあるように思います。その両者が作用して、PMFに対するわたしたちの態度のベースに”拝舶来主義”とPMFから何かを授けてもらおうという受け身一辺倒の姿勢があるように思えてなりません。そこから思い切って抜け出してこそPMFが「札幌市だからこそ出来た」と言われるような私たちの誇れる「札幌音楽祭」になる日が来るのではないでしょうか。

 

終わり
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