第4回〜第6回   第7回〜   ARAKI's H.P. INDEXへもどる

プロローグ

シフィック・ミュージック・フェスティバルという音楽祭があります。毎年7月に約1ヶ月間札幌を中心に開かれていて、今年で10周年を迎えます。著名な海外のオーケストラをレジデントオーケストラとして招聘し、その他に世界から若手の演奏家をオーディションで募って「パシフィック・ミュージック・フェスティバル・オーケストラ(以下,PMFO)」を組織します。この音楽祭は教育が主な目的なのでこのオーケストラがメインの存在です。

ーンスタインが提唱して始まりました。私は第1回のPMFOに参加し、そこでバーンスタインの指揮で演奏するという非常な幸運に恵まれました。近年PMFはある程度の知名度を得て国際音楽祭としての市民権も獲得しつつあるように見える半面、運営のあり方、自治体やスポンサーとの関係が各方面で問題視されています。そしてなにより私自身地元オーケストラである札響との関係に疑問を感じます。デリケートな問題を孕んだテーマですので今まで書くことを躊躇してました。書くにあたってもWebで私個人が発言するべきではないと思われる事も沢山あるので、「これが客観的事実だ」という言い方はしませし、そういう内容にも触れません。また結論めいたことも言わないつもりです。あくまで回顧録としてお読みください。


1990年の第1回PMFの紹介とスケジュールが書いた冊子。

古い資料を見ていて思ったのですが、第1回の頃ってやたらと教育目的の音楽祭を強調するスローガンが目につきます。それと今はほとんど使われなくなった「PMFO」という文字も「PMF」以上に目につきます。そういえばこの頃はみんな「PMPO」って言ってました。

 

PMFのホームページはこちら http://www.pmf.or.jp/pmf-j.html


第1回 PMFを受験した頃のボク

1回のPMFがあった1990年、私は獨協大学の経済学部に籍は置くものの、卒業するには単位は全く足りず、かといってプロの演奏家として生活するには仕事が足りないという正に八方塞がりの状態にいました。不安な気持ちを紛らわすために朝から晩までチェロを練習する日々が続いていました。そんな時期に音楽事務所に就職した友人から久しぶりに電話が入り、「PMFという音楽祭があるんだけど、オーディションを受ける人があまりいないんだって。受けてみたら?。ウソかホントか知らないがバーンスタインが来るみたいだよ。しかも札幌でやるんだって。帰省できるじゃん」と言われました。当時PMFの存在は全くの無名で一部の関係者にしか知られてませんでした。私も聞いたことが無くバーンスタインが来るらしいと聞いても信じられませんでした。あまり興味は湧かず、そもそも本当にその音楽祭は存在するのか半信半疑でしたが、もし本当に音楽祭が実在してオーディションに受かれば、仮にバーンスタインが来なくても夏休みの帰省のための飛行機代も出るし受けてみるか。という気持ちでオーディションに臨みました。

ーディションはたしか4月くらいだったと思います。獨協大学の友人を誘って二人で受けに行きました。オーディションはビルの地下にある音楽スタジオで本当に行われていました。ラロのコンチェルトと指定されたオケスタを弾きました。審査員は大植英次氏という指揮者が一人でやってました。私は知りませんでしたが大植氏は当時バーンスタインの一番弟子だったそうで、その自信に溢れた表情や洗練された振る舞いはまるでオーラを放っているようで圧倒されました。一緒に行った友人との間ではしばらく大植氏は「オーラのおっさん」と呼ばれていました。課題曲を弾く前に大植氏は私にいろいろ質問しました。楽器の演奏の優劣以外にも個人のキャラクターなど色々配慮した人選を行いたかったんだと思います。「誰にチェロを習いましたか?」「英語は話せますか?」「ドイツ語は?」などの質問から会話を引き出し、私の当時の境遇に非常に興味を持たれたみたいでした。そして私がコンチェルトと課題曲を弾き終えると「毛利先生(当時の私のチェロの先生)はいい先生だ。これから7月までの間は英語を猛勉強するように」と言われました。

1ヶ月後に合格を知らせる通知とPMFのスケジュールなどが入った封筒が届きました。バーンスタインが来る割には粗末な印刷物でまだ疑いは解けません。

協大の近くに住んでいたので、オーケストラの部室に行き友人たちに報告しました。一緒に受けた友人は不合格でした。とりあえず英文科のバイリンガル後輩に英会話を習うことにして皆で飲みに行きました。

次回はその直後、母の入院で札幌に帰った時の予想もしなかった騒動について。

 

 

 

第2回 母の入院で札幌に帰った時の予想もしなかった騒動

格通知が届いた数日後、母が病気で実家のある札幌の病院に入院しました。偶然すぐしたの弟も同じ病院に入院したので、私は看病のため母が入院している1ヶ月間ほどを札幌の実家で過ごすことにしました。東京では小中学校の音楽教室の仕事が何本か入っていたのですが、なんとか代わりを立ててキャンセルしました。

が札幌に着いた2日後位に札幌のテレビ局から取材の申し込みが入りました。同じ日の夕方新聞社からも取材の申し込みがありました。どちらもPMFに合格した北海道出身の演奏者の喜びの声を聞きたい、というものでした。これには驚きました。まさかこんな大事になっているとは思いませんでした。合格者への通知より1週間ほど遅れてマスコミなどへの公示があったようで、私の帰省とちょうどタイミングが重なったのです。

材の申し入れのあった日の夕方、テレビ局が私の家に来ました。大袈裟に喜んで興奮しながら「バーンスタインの指揮で演奏できるなんて夢のようです」と言えば良かったのでしょうが、こちらはついさっきまで「その音楽祭って本当にあるの?」と思ってたわけですし、キツネにつままれた様です。それに当時の私はまだ音大に行ってませんでしたから、音楽祭に出ることよりもそこで少しでも人脈を作って仕事に繋げたい。という計算のほうが大きかったのです。

楽祭の存在に対してここまで疑念を抱く原因は単に知名度の問題だけではありませんでした。PMF初期のころマネージメントを受け持っていた事務所の対応があまり良くなく、連絡の不備やミスなどが多すぎてバーンスタインの提唱する国際音楽祭の事務局とは信じられない状態だったのです。例えば私がその後7月に東京から札幌に行くための飛行機チケットも、事前に連絡したにもかかわらず郵送が遅れて間に合いませでした。仕方ないのでチケット代を立て替えて飛行機に乗ったのですが、その後の催促にも関らず結局チケット代は戻ってきませんでした。小さな事務所で人手不足と不慣れのため職員が忙殺されていたのは見て分かりましたが、一事が万事この調子でキレる参加者も少なくなかったです。

んなこんなでその日のテレビの取材に対しては、先方の取材意図とは違って冷めた答えになったと思います。次の日には道新が取材に来ました。北海道のマスコミのPMFに対する加熱ぶりが少し飲み込めて来たのと、昨日のテレビ局のオネエさんレポーターとは違って、知識を持ったきちんとした人が来たので、乗せられながら今度は上手く答えることが出来ました。数日後の新聞に「世界と共演待つ道産子奏者」という特集が組まれ、5人の北海道出身奏者が大きな写真入りで載りました。私は「ダークホース的な存在」と紹介されました。

1990年5月27日北海道新聞夕刊

の頃は札幌時代の先生の計らいで、月に1回位のペースで札響にエキストラで出演していました。音大以外の大学に行っているということはなるべく知られないようにしていました。新聞に大々的に載ってしまったため素性はバレましたが、先生はほっとした様子で喜んでくれました。母はお祭り騒ぎが大好きなのでタイミングの悪い入院に地団駄を踏んでいました。

楽器弾きとしてこのような扱いを受けるのは当然始めての経験で、予想もしなかった展開に驚きました。

 

次回は真駒内青少年会館で始まった合宿生活について。

 

 

第3回 真駒内青少年会館で始まった合宿生活

1回PMFの北海道での開催期間は1990年6月26日の開会式から7月14日のファイナルコンサートまでの19日間でした(その後東京・横浜での公演がありました)。PMFO参加者は開会式の2日前の24日からオリエンテーションや練習などのため真駒内青少年会館での合宿生活に入りました。私は3日ほど前に東京から札幌の実家に帰り、実家から真駒内青少年会館に向かいました。真駒内青少年会館というのは札幌市南区にあって、もうけっこう古いのですが、約1000人収容のホールと宿泊施設やプールが一緒になった施設です。その中の宿泊施設を指して「真駒内ハイツ」と言うらしく、PMFではこの施設すべてを指して「真駒内ハイツ」と呼んでいました。

4日の朝、着替えとチェロを持って不安な気持ちでその真駒内ハイツに着きました。既にスタッフは業務にかかっていてロビーの特設掲示板には英語で書かれたスケジュールや注意書などがぎっしりと張られています。真駒内ハイツにもともとあるフロントデスクの横にPMFのスタッフが常時2〜3名詰めている仮設デスクがあります。ここで受け付けをして「HITOSHI ARAKI  CELLO」と書かれた名札を貰いました。ホールで行われるオリエンテーションにはまだ2時間ほどあります。「外人」が数名イスに座って何か話しています。日本人参加者らしき人たちが何人か来て受け付けを済ませ、2階の喫茶室に行ってしまいました。私は知り合いもいませんし、ひたすらロビーのイスに座って時間をつぶします。しばらくして私に話しかけて来る人がいました。「あの、・・・荒木君?」「はい」「毛利さんから君のことよろしくって言われたんだ」。彼もPMFO参加者で、Tさんといって当時読響のチェロの常トラで私の師匠(読響首席)から私のことを託されたとのことです。。「あ、よろしくお願いします」

直かなりほっとしました。Tさんは弦楽器奏者には珍しく気さくで豪快な人で、また参加者に知り合いも多く業界にも詳しかったので、色々な人に私を紹介して周ってくれました。PMFOのチェロ16人の内日本人は私とTさんだけで、またPMFが終わった後も親交の続いた唯一の人でした。

頃ホールでオリエンテーションが始まりました。この時点でPMFOのメンバーはビザを取得できなかった中国人たちなど一部を除いてほとんど集まっていました。オリエンテーションではこれからのスケジュールなどが説明され、スタッフの紹介がありました。私はなんと隣に座ったアングロサクソン系の女のコにナンパされましたが、英会話が成立せずに不発に終わりました。

の後各々の部屋を割り当てられました。狭い5人部屋です。部屋には2段ベッドが3つあります。国別・楽器別などではなくランダムに分けられました。私の部屋は私とニュージーランド人2人、韓国人、南米系の人、の5人です。するとTさんが部屋に入って来て南米系の人と部屋を交換する話をつけ、Tさんはこの部屋の住人になりました。

食は真駒内ハイツの2階にある食堂と使います。バイキング形式でパスタやパンやチキンなどアメリカ的なメニューです。味も大味でアメリカ的でした。ほぼ同じメニューが3週間続きました。

たちの一番の関心事は演奏会への練習の日程でした。本番の日は決まっているのですが曲目も未定が多く、どの演奏会の練習をどの日に何日やるのか。また、譜面はいつ来るのか。など何も決まっていない様子でした。肝心のバーンスタインは何を振るのかも知らされていませんでした。室内楽も割り振られていたのですが、中国人たちのように来られなくなったメンバーなどもいて、曲も人も組み直しという噂も聞こえて来ました。この時点で手に入った譜面は確か7月3日の最初の演奏会のものだけだったと思います。事前に手に入るものに関してはさらってありましたが、個人で入手するには困難な譜面もあり、未定のものに関しては手のほどこしようもありません。譜面を渡されたからといってその場ですぐ弾けるものではありません。皆不満をもらしていました。

の晩軽いレセプションがありました。パシフィック・ミュージック・フェスティバル(環太平洋音楽祭)ですから、基本的に環太平洋の国々から来た人で構成されています。日本人が30人位で一番多く、続いて韓国人、オーストラリア人、ニュージーランド、南米、アメリカもけっこう多く、東南アジアもまあまあいます。なぜかイギリス人が何人かいました。ヨーロッパからの参加はそのイギリス人たちだけです。日本人は3分の1位がアメリカ留学生たちでした。

 

次回は、席次オーディションと練習開始について。

 

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